しかし、結婚ってそんなにエライのか。結婚について「たった1人の異性に排他的かつ独占的に自分の身体を性的に使用する権利を生涯にわたって譲渡すること」とその隷属的な本質を指摘し、「セックスの相手をおクニに登録して契約を結ぶ必要なんてない」と述べたのは、社会学者の上野千鶴子だったが、実際、結婚制度なんて、共同体が人間の性と生殖を管理するためにつくり出した便宜上のシステムにすぎない。
近代国家では、この結婚制度に法の保護と経済的特権を与えることで、性の秩序を維持し、子づくりさせ、育児に責任をもたせようとしてきたが、いまや多くの先進国でそれはまったく機能しなくなっている。むしろ結婚制度が疎外と貧困、少子化を生み出しているという側面もあるし、フランスでは、婚姻率が日本の半分程度にまで低下しながら、逆に出生率はアップしている。
いや、制度の是非は別にしても、少なくとも人には結婚の法的特権を享受する権利も、その管理に背を向けて自由に性を謳歌する権利もあるはずだ。ましてや、ベッキーは独身で、制度からなんの特権も与えられていないし、保護も受けていない。相手が制度の内側にいるというだけで、なぜその相手に恋愛感情を持ったこと自体を「罪」だと考えなければならないのか。ここまでくると、道徳ファシズムによる暴力的抑圧としか言いようがない。
ところが、ベッキーは今回、その道徳ファシズムに屈したというより、それを完全に内面化してしまっていた。前述したように、嘘や演技ではなく、自分の言葉で不倫を「愚か」「最低」「大きな罪」と語っていた。これは本当に最悪だと思う。
ドイツの社会心理学者、哲学者であるエーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』の中で、ナチズムはヒトラーが大衆を力ずくで支配した結果でなく、むしろ大衆がその強制を内面化し、自発的に服従することによって実現されたと指摘した。そして、その内面化、内的権威をつくりだすメカニズムをこう分析した。
〈近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。〉
〈この特殊なメカニズムは、現代社会において、大部分の正常なひとびとのとっている解決方法である。簡単にいえば、個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受け入れる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界との矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を怖れる意識も消える。〉