こうした態度を、倉本氏は「卑怯」と表現する。自分は戦場の最前線に立つこともなく、人びとに命を投げ打つことを強要する卑怯。そして、原発事故の収束よりも東京オリンピックに労働力をつぎ込むという卑怯。そうした「卑怯」さは日本人全体に共通することだと倉本氏は述べる。
「原発の核のゴミはどこも受け入れない。沖縄の基地も同じ構造です。同情はしてもそれをなんとかしようという方向には行かない。戦前生まれの僕みたいな者は、日本人がものすごく変わった、と怒りを持っています」(東京新聞1月23日付)
その上で、倉本氏は憲法9条も「卑怯」と呼ぶ。
〈戦後この国は戦いから隔離され
卑怯だ、ずるいと批判を浴びながら
平和憲法を必死に死守した
たしかにある意味では
卑怯かもしれない
潔ぎ良いとは云えないかもしれない
しかしそのことが70年の平和を
この国にもたらしてくれたのだったら
卑怯な国という世の悪名を
敢えて受けるのもよいかもしれない〉(前出『昭和からの遺言』より)
卑怯な国と後ろ指を指されても、平和のためにあえて卑怯を引き受ける。そのことが世界で特異に見えても、あの悲惨な戦争の後、この国はそれが平和の道だと信じ、実際、戦争によってひとりも殺さずにここまできたのだから。……だが、倉本氏はつづけて〈国家はそれで良い。/しかし国民は/個人々々は/決して卑怯であってはならない〉と説く。〈さもないと70年間戦争を避けてきた/卑怯の哲学が成立しなくなる〉からだ。
〈大きな卑怯の世界の中にいる
それは仕方ない 威張って認めよう
だが俺個人は俺個人に対し
卑怯者になることを
絶対 許さない〉