毎年お茶の間に驚きを届けるあの衣装のきっかけは、「緊張を和らげる」というものがきっかけだったのだ。小林幸子ほどの歌手が、なぜそこまで緊張してしまうのか、そこにはやはり『紅白歌合戦』という舞台がもつ独特の空気が関係している。
〈紅白は日本最大のバラエティー番組にして、世界最大の年越しライブだと思います。一家の大黒柱のような歌い手が勢ぞろいすると、ホールにエネルギーが満ちてスパークする。同じNHKホールでは別の番組もありますが、紅白の時のホールは別もの。普段とは全く違う空気に満ちています〉(前出・「サンデー毎日」より)
前述の発言でも分かるように、小林幸子は紅白という舞台に、それだけ並々ならぬ思いを抱き続けてきた。だが、周知の通り、1979年から11年まで33回連続出場した後、今年15年で復活するにいたるまで4年間紅白歌合戦の舞台から遠ざかっている。その原因をつくったのは、事務所前社長との対立、そしてその後ろ盾となった「芸能界のドン」こと、バーニングプロダクションの周防郁雄代表取締役社長の圧力だった。
凋落は、12年、小林の個人事務所である「幸子プロモーション」の女性社長と専務が会社を去り、それが表沙汰になったことから始まる。当初は、前年に結婚した小林の夫が、芸能界のしきたりを理解せずに幸子プロモーションの経営に口を出したことで、小林と元社長・元専務の溝が深まったのがその要因だと言われていた。
しかしその後、実は、元社長・元専務の2人に任せきりにされていた社の経理が不明瞭で、小林は自身のグッズの収支すら一切把握できていなかったという報道もなされ、双方の主張が対立し合う泥沼の状況に。ワイドショーや週刊誌を舞台に、元社長・元専務VS小林幸子のバトルが連日報じられることになる。
実はこのバトル、小林幸子バッシングの背景にあったのが、周防社長であった。彼が元社長・元専務サイドについていたため、スポーツ紙やテレビは小林に対するネガティブキャンペーンを展開。そして、所属レコード会社である日本コロムビアは新曲発売の延期を決定。さらに、レコード会社との契約を解消するという結末になるのである。
その後、作詞家・作曲家といった音楽関係者もバーニングを敵に回した小林との仕事を敬遠し、スタジオさえ借りられなかったために、別の歌手の名前を使ってレコーディングに及んだという。周囲に圧力をかけて小林を孤立させる、まさにバーニングの常套手段により、小林の歌手生命は絶たれる寸前であった。