繰り返すが、たしかに昨今言われる自爆テロと特攻は、態様の面には違いがある。しかし、だからといって特攻を〈古代日本とつながっていた〉〈日本的精神〉〈究極の生〉とする右派の言説には、まったくもって頷くことはできない。なぜならば、それは、単に特攻をナショナリスティックな“物語”に回収しているにすぎないからだ。
むしろ、よく考えてみてほしい。“同じか、違うか”という以前に、特攻はテロよりも、はるかに陰惨なものではなかったか。
そもそも、一般にテロリズムとは、政治的目的を達成するための、通常は暴力を伴う、個人ないしは集団による実力行使のことである。9.11以降「自爆テロ」は「無差別テロ」と混同されて使われがちだが、もとより「自爆」(suicide bombing)は暴力に付随する行為あるいは結果、「無差別」(indiscriminate)は暴力を奮う対象についての形容だ(つまり、特攻=テロ論は前者について類似性を認め、特攻≠テロ論は後者について否定している)。
これを確認したうえで、特攻は、お上の“命令”が絶対だった戦争中の軍事作戦だったことを考えなければならない。特攻は形式の上では志願ではあったが、事実上強制されていたという証言は多い。たとえば、戦後に俳優として活躍した西村晃も、機体の不良で引き返し終戦を迎えた元特攻隊員のひとりだ。
〈そのうちに日本の敗色が濃くなり、昭和二十年になると、私も半ば強制的に特攻隊を志願させられました。
いったん鹿児島に渡り、練習機に積める限りの二百五十キロ爆弾を積み、電探(レーダー)にひっかからないよう海面スレスレを飛んで、沖縄近辺の米艦隊に体当たりするんです。出撃は毎回、視界のよい満月の夜。そのたびに少しずつ仲間が減って行く気持ち、たまりませんでした。〉(読売新聞1987年11月22日付朝刊)
次は、ある元海軍予備生の証言だ。終戦直前の軍隊という空間で、志願を断ることがどれほど困難だったかがわかる。
〈1945(昭和20)年6月、海軍予備生徒として航空隊の基礎教程を受けていたある日の夜、就寝前になって特攻隊志願者名簿が回ってきた。近くにいた戦友が「死ぬのはいやだな」とつぶやいた。しかし、彼も他の隊員たちと同様署名した。志願という強制である。こんな場合署名を断ることは絶対できない。〉(毎日新聞14年8月14日)