「大震災の時、私はその場にいなかったのですからよくわかりませんが、その夜から避難所には、食べ物を作る方はいらしたのかしら。私だったら津波が引いたら、鍋とかお釜を拾い出し、ブロックで竃を築いて、燃料はそのへんに落ちている誰の物かわからない木片をどんどん焚いて暖を取りますし、高台に住む人におコメを分けてもらってすぐ炊き出しを考えますね。(中略)ところが、震災直後には『誰の所有物かわからない鍋や、誰の家屋の一部だったか定かでない木片を無断で拾ったり燃やしたりしたら、窃盗になる』なんてことを言い出す人も少なくなかったそうです」
そもそもなぜ災害時に物品等を支援するのか、災害に直面し、家族をなくした人たちがどういう精神状態におちいっているかということには考えが及ばないらしい。だいたい、津波被災した場所に落ちている木片を集めて火がつくと、この人は本気で思っているのだろうか。
曽野はとにかく、他者が労働抜きにモノを手に入れることが大っ嫌いなのだ。カトリック教徒でありながら(いや、だからこそなのか)、弱者へのまなざしがまったくなく、弱者を救済する制度を徹底的に排撃する。それどころか、弱者そのものを「汚い者」「狡い者」「怠け者」として。
実際、曽野の冷酷な筆致はハロウィンの親子に限らず、難民にまで貫かれる。「文藝春秋」(文藝春秋)12月号ではシリア難民をはじめとした難民を日本が受け入れるべきか否か、受け入れうるかという観点で「難民受け入れは時期尚早だ」という一文を寄稿している。そこでも、
〈難民の多くは、生まれ落ちた国の事情で、気の毒な運命に翻弄され、やむなく難民になった人たちだが、難民になったほうが飢えることがないから、自ら進んで難民認定を得る狡い人もいる。
何十年にもわたって難民認定を受けて暮らし、キャンプの外で働き、お金を貯めるのだ。また、高利貸しから逃れるために難民に紛れ込む者もいる。そして、難民を生業とする『難民業』とでも呼ぶべき身分が発生する。(中略)その難民申請を得ようとする者は、難民申請の最中には強制退去させられないことを知って、申請をはねられても繰り返し申請する者もいると聞く。また『難民業』として、申請するものもいるという。単純に「難民申請が少ない」と批判するのも実情を知らない結果かもしれない。〉
と、難民に対して「難民業」なる職業を新しく作り出し、「狡い人」がいることをことさらに強調しているのだ。
これははすみとしこと同じ。〈贅沢がしたい/何の苦労もなく生きたいように生きていきたい/他人の金で。そうだ、難民しよう。〉という悪意丸出しの文面とともに、シリア難民の少女を攻撃するイラストをFacebookに投稿したヘイト漫画家の発想そのものではないか。