たしかに、バウハウスをはじめとする西洋的なデザインの信奉者で、若いデザイナーが日本的エキゾチシズムに走るのを非常に嫌っていたという亀倉が、単純に日の丸を使うというのは考えにくい。前掲の『曲線と直線の宇宙』では、日の丸のデザインについてこう批判的に語ったこともある。
〈私の子供の頃から戦争の最中まで、日の丸の旗は祭日には町中をかざった。白地に丸い赤は、少し淋しいような、あるいは爽やかなような感じに見えたものだ。例えば、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアの旗と比べたら、日の丸はまことに単純で、決してにぎにぎしい、浮き浮きしたものではない。むしろすがすがしい淋しさをもったものだと思う。悪く言えば、少し物足りない、食い足りないもどかしさがどこかにある〉
だが、一方で、前出の盟友・永井は「考える人」(新潮社)2006年2月号で、亀倉の東京五輪のデザインについて、こんな証言をしているのだ。
〈それはまさしく目からウロコが落ちるほどのものでした。60年のシンボルマークの指名コンペで指名されていたのは亀倉さんのほか、河野鷹思、稲垣行一郎、田中一光、杉浦康平、そして私の6名でした。日本で初めて行われるオリンピックだから、そのシンボルマークに日の丸をというのは、私の心に浮かばなかったわけではなかったのですが、あまりにも当たり前すぎて避けてしまったのです。指名されたほかのデザイナーも同じだったのでしょう、日の丸を使ったのは亀倉さんだけでした〉
そう、やっぱりあれは「日の丸」だったのである。おそらく、締め切りを忘れていた亀倉が短時間でデザインを仕上げなくてはならないため、「えーい、いっそ日の丸を使ってしまえ」と、あのデザインをつくったのではないだろうか。赤い丸は「太陽」などと説明されているが、それも後付けだった可能性が高い。
亀倉雄策というデザイナーは、デザインをする際に、必ずクライアントに綿密な取材をし、非常に丁寧な仕事をすることで知られていた。少なくとも東京五輪のエンブレムはその亀倉のデザイン作品のなかで、かなり例外的にテキトーにつくられたものだったと言っていいだろう。
実は、本人もこの東京五輪エンブレムを代表作のように扱われるのは、嫌だったようで、「中央公論」(中央公論新社)94年3月号のインタビューでは、こう語っている。
「もういいかげんにして欲しいね。他にも作品はたくさんあるんだから。反核キャンペーンとか万博のポスターとか」
今、ネットやテレビのコメンテーターが絶賛しているデザインも、実体は結局、この程度のものなのだ。亀倉デザインの再使用論待望はしょせん、「懐古趣味」「リバイバル」にすぎないのではないだろうか。
(井川健二)
最終更新:2015.10.04 08:34