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『ヨルタモリ』でも見ることができなかった、タモリの知られざる“政治性”とは…NHKでは歴史修正主義批判も

 著者によれば、タモリがこうした感覚をもつにいたった大きな要因はその生い立ちにある。タモリの家族は満州からの引き揚げ組だった。幼い森田少年は、元満鉄の駅長で遊び人だった祖父から、当時としては世界的にみても先進的な都市だった満州での生活の話を聞いて育ったことで、日本を相対化する視点をもったのである。

 また、進学のため上京したタモリは、全共闘の全盛期だったのにもかかわらず、学生運動にもまったく興味をもたなかったそうだ。

〈全共闘世代っていうけど、なんら、影響受けてないもん。やってたヤツ、知り合いにいないし〉

 その代わりに熱中していたことといえば、所属していたジャズサークルの巡業講演での司会役。政治には見向きもせず、ひたすら芸を磨いていたのである。なお大卒初任給が約2万円の当時に演奏旅行で月数十万の収入を稼いでいたのだという。

 ちなみにこの頃、のちに三島由紀夫の介錯をしたことで有名になる楯の会メンバー・森田必勝も同じ早稲田大学に在籍していた。近藤も指摘するとおり、同じ「森田」姓をもつ正反対の二人が同じ時期、同じ場所にいたという偶然はとても興味深い。

 そしてタモリは大学卒業後、一度は故郷の福岡に戻り、ボーリング場の支配人などを経験するが、やがてジャズピアニストの山下洋輔と運命的な出会いを果たし、「九州の天才」として鳴り物入りで上京。赤塚不二夫ら、業界のトガった人々との交流を経て、30歳遅咲きの鮮烈デビューを飾るのである。

 だが、タモリが政治運動にかかわらなかったからといって、それがイコール政治的じゃないというわけではない。

 本書の分析によれば、タモリが長いキャリアで行ってきたことは「言葉の意味のレンジを広げる」ことだと要約できる。先に述べたようにタモリは既存の秩序・価値の重苦しさに反抗心をもってきた。

「ハナモゲラ語」や「中洲産業大学」といった有名なもちネタ、あるいは「空耳アワー」等といった企画はまさにその戦略のひとつだ。つまり、社会を成り立たせている「言葉」にまったく別の意味を与えることで「意味の連鎖」をズラし、重苦しさを軽やかに解体していくこと――これこそが芸人・森田一義の根底に流れる行動原理なのである。

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