〈松尾監督のAVに出ている女の人は、自分にとって、理想の女の姿に見えました。エロくて、性欲に素直で、撮られても堂々としている。私は自分の欲情している姿が男の人にとって見苦しいみにくいものだと思い込んでいたので、この「堂々としている」というところがもっともすごいと思ったし、憧れました。憧れたけど、AVは現実をしっかり映すものでもあります。自分が堂々としたところで絶対にこんなふうにエロくも、キレイにもなれない。そう思いました。
ものすごい絶望感でした。畳をかきむしる思いでオナニーしてました。フローリングだったけど。でも、ここに何か、今までずっと苦しんでどうしようもなかったことに対する答えがあるのだという気持ちがありました。ここで逃げたら一生このまま卑屈な気持ちで、自意識をもて余したまんま、キレイにも、堂々とした女にもなれず、びくびくした一生を送るしかないんだと、なぜか強烈にそう思いました〉
彼らの作品に刺激を受けた雨宮は、エロ本編集者を経て、AVライターへの道を歩みだすことになる。しかし、ここからがさらに“女をこじらせる”地獄の日々の始まりだった。
いくら真剣に仕事をしても、編集部が彼女に文章を発注する理由は「女がAV観てるって思うだけで興奮する読者もいるから」という甘い発想ばかり。たまに仕事をほめられたとしても、それは「女の視点が面白い」という評価。真面目にAVのことを書いて「女でもこいつは違う、わかってる」「女だけど、AVのことよくわかってる」と認められたいと強く願っても、それは叶えられない。
挙句の果てには、“美人ライター”と呼ぶ人も出てきて、「寝て仕事取ってる」「ヤッたからほめられてる」とすら言われる始末。
これまでの人生ずっと“ブス”と呼ばれていたのに、手の平を返したように“美人”と言われる矛盾と、そこから感じる絶望。今まで“女”であることにさんざん苦しめられたのにも関わらず、どこまでも自分が“女”であることから逃げられない。
〈ライターとしての自分に価値があると思っていたわけではありません。でも、求められた価値がよりによって「女」だとは。自分は、女なのにちっとも女らしくなく、女の服やおしゃれや髪型が似合わない、女失格な女だと思っていた。「女」としての自分は、私の中では何の価値もないどころか自分を果てしない劣等感で苦しめるものでした。なのに求められるのは「貧乳だろうが顔がまずかろうが色気がなかろうが、とりあえず20代でAVとか出てない素人女」としての価値だけだった〉