当時の航空自衛隊の幹部や長野県警の現役警察官に加え、事故現場に急行した自衛隊救難ヘリ2人の機長の証言まで織り込んで、現場の混乱ぶりや防衛庁と警察の足並みがそろわなかった実態を明らかにしている。
ところがこの番組中でも、在日米空軍のC-130輸送機がいち早く現場に到着していた事実を全く報じていない。
特に番組内で「自身の経験が役に立てば、と今回初めて証言をしました」といわば鳴り物入りで登場した当時の救難ヘリ機長・林璋三等空佐(当時)の話には拍子抜けした。
実は、林氏が証言をしたのは厳密にいえば初めてのことではない。事故のあった1985年11月号の『航空ジャーナル』で航空評論家の青木謙知氏の取材に答えているのだ。
そのなかで、「現場に到着すると、上空を米空軍のC-130が旋回し、またその下にはUH1が飛行していた」「まずC-130とコンタクトを取り、その後UH1と入れ替わって高度を下げていった」という重要な証言をしている。
つまり、自衛隊は米軍が先に事故現場に着いて待機していたことを把握していたわけだが、番組中で林氏はこのことには全く触れず、当日の事故現場の火災の様子や救助を断念して撤退した思いを語るだけなのであった。
これでは、たとえ「初めての証言」だったとしても、真実の解明に役立つとはとてもいえないだろう。
アントヌッチ証言によれば、自らが指示を受けて捜索に向かったことや、一緒に現場に待機していたUH1ヘリが乗務員を降下させる準備までさせていたのにもかかわらず、急遽司令部の命令で中止、撤退させられていたことも明らかにされており、この米軍の動きと自衛隊=防衛庁との間でどんなやり取りがあったかということが捜索活動の初動における重要な問題点であることは、取材する記者であれば分からないわけがない。
事故調の報告書にまで「現場を通過中のC-130」と、あくまで現場を通りかかったようにしか書かれていないことと合わせて考えても、どうも、この事実を掘り起こして欲しくないという極めて政治的な作為を感じずにはいられない事象なのである。