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和田アキ子が又吉『火花』を「純文学感じられない」と酷評! 又吉『火花』は純文学か? 論争の歴史をふりかえる

 こうした西の指摘に綿矢は、「(純文は)キャラクターの枠に当てはめずに人物を描くから、一人の人物にいろんな要素が詰まっていることが多くて、その分、登場人物があまり多くならない傾向があるかな」と返答。どうやらふたりの話をまとめると、登場人物の言動にきちんと理由がわかるよう説明が求められるのがエンタメ、キャラクターに頼らない分、登場人物が少なくなるのが純文学の傾向だということだろうか。

 また、直木賞作家の桜庭一樹は、読書エッセイ『お好みの本、入荷しました 桜庭一樹読書日記』(東京創元社)のなかで、ある作家が芥川賞受賞時のインタビューで“エンタメ小説を書いていたときより純文学を書くようになると不安になるぐらいゆっくりに変わった”と語っていたことを取り上げ、「なるほど、早く書くとエンタメで、ゆっくり書くと純文なのかな」と思い浮かんだと綴っている。じつは桜庭自身も「純文とエンタメのちがいがよくわからなくて」と述べているように、もはや作家自身も、何が純文学なのかよくわからないようだ。

 そもそも、芥川賞と直木賞でも“ねじれ”というべき現象が起こっている。有名な話では、今回、又吉の選考理由を記者の前で述べた芥川賞選考委員の山田詠美は直木賞受賞作家だ。また、1998年7月に発表された第119回芥川・直木賞では、「純文学」作家の車谷長吉が『赤目四十八瀧心中未遂』(文藝春秋)で直木賞を受賞し、逆に「エンターテインメント」作家の花村萬月が『ゲルマニウムの夜』(文藝春秋)で芥川賞を受賞している。このとき文壇では“文学ジャンルのボーダーレス化”、さらには“純文学というジャンルの衰退”がさかんに語られた。

 さらに、この車谷・花村の受賞から半年前には、直木賞作家たちから“芥川賞 ディス”ともいうべき声があがっている。

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