〈光雄は有望なレスリング選手である。これからも日本代表に誘われることだろう。将来を考え帰化させたらどうかと江本が言うと、兄は「それは難しい」と強く首を振った。
「同胞がとりあってくれんようになる」
在日朝鮮人社会の結びつきは強い。彼らの目があるので、国籍を変えることはできないのだ〉
結局、監督は彼が韓国籍であることを知らなかったということにして、国体への出場を強行。そして、長州力は監督の思いに応えるように見事優勝を果たす。国体直後のアメリカ遠征のメンバーには国籍がネックとなり、選ばれなかったものの、そのおかげで大学のレスリング関係者からも注目が集まり、専修大学や日本体育大学から誘いの声がかかる。そして、彼は、〈日本国籍がなければ、教員として採用されにくいという噂を耳にしたことがあった〉という監督からの進言もあり、将来の進路選択に幅をもたせられる専修大学への進学を決めるのであった。
大学入学後も彼は順調に実力をつけていく。そして、韓国代表としてミュンヘンオリンピックに出場することになるのだが、長州力はここでも“疎外感”を感じることになる。選手村やトレーニングセンターで“同胞”たちと合宿し寝食を共にするも、言葉・習慣・価値観も違う彼らとは、うまく分かり合うことができなかったのだ。
韓国籍をもっているからといって差別されることのない場所に来たはずなのに感じる孤独。〈“母国”韓国人にとって光雄は同胞であり、日本で育った妬みの対象でもあった〉。徴兵制の有無、そして、経済格差によって生まれた妬みがさらに相互理解を阻む。
〈ミュンヘンの選手村でも疎外感があった。日本育ちの光雄に韓国の選手たちは興味津々で、身ぶり手ぶりで話しかけてきた。
彼らはベトナム戦争に従軍したときの写真を見せた。
「凄い写真。うぇってなるような写真。ボクシングの選手なんか特にそういうのが多かった」
お前は兵役に服さず、ベトナムにも行っていないと彼らは光雄に冷ややかだった。言葉は理解できなくとも、陰口を叩かれていることは雰囲気で感じる〉
このような状況も災いしたのか、彼は五輪で思うような成績は残せなかったが、その後、プロレスに転進しご存知の通りの活躍を見せる。
しかし、紆余曲折ありながらもスターにまで上り詰めた長州力に対し、またも心無い差別の言葉が襲い掛かる事件が起こる。90年、彼が新日本プロレスの「現場監督」を務めていた時だった。デビュー間もない、元横綱・北尾光司とのトラブルである。その時のことを彼はこう振り返る。