大学時代に感銘を受けた文学作品として山口はトニ・モリスンやアリス・ウォーカーなど、黒人女性作家たちの作品を挙げる。マイノリティのなかの世界を描いたそれらの作品から、彼女は少数派には「どんな社会でも説明責任が課せられ」ることを痛感したという。
〈黒人女性作家は、自分個人の見解を自由に述べることはできず、自分たちの背後にいる集団を代表して発言せざるを得ない。だから、その発言には、その背後にいる何万人分の重みがあるように感じられました。
そして、私は、これが他人事とは思えませんでした。(略)自分の中にあるマイノリティ性から、目を背けないようにしよう。アメリカの黒人女性作家たちの作品は、私に新たな視点を与えてくれました〉
山口という存在にメディアが着目する理由のひとつも、彼女が単に「高学歴」であるだけではなく「女性」という属性を背負っているためだ。高学歴で社会的なステイタスのある仕事についているため一般的には「強者」と括られがちだが、そこに性別という属性がかけ合わされば、俗世間的には「マイノリティ」へと転ずるのである。
だとするなら、さきほどのような失敗談を「頭のいい女はこれだからイタい」と決めつけて終わりにするのは得策ではあるまい。むしろそこから、高学歴女子に固有の問題とは何かを洗い直した方が良いだろう。
山口の著作が映すのは「いいエリート」「わるいエリート」のいずれでもない。そうした単純な二元論を越えた向こう側にたたずむ、孤独で不器用な「マイノリティ」としてのエリート女性の姿なのだ。
(明松 結)
最終更新:2018.10.18 03:10