しかし、そんな安倍首相に呼応するかのように、安易にナショナリズムを称揚したり、進んで靖国神社に参拝したりする若者が増えはじめていたのが、00年代中盤の情勢である。
著者によれば『デスノート』には当時の若者を代弁するようなセリフが多く出てくる。とくに、主人公・夜神月の有名なセリフ「僕は新世界の神となる」に注目して、著者はこう批評する。
「この言葉を見れば、『デスノート』が近代合理主義と人間中心主義的な思考の過激な表れであり、そのあげく、神をめざすという倒錯におちいっていることが一目瞭然だろう」
この「倒錯」を読み解く鍵となるのが”セカイ系”的な心理であると著者はいう。
セカイ系とは、本書の定義によれば〈普段は閉ざされた内向的な個人生活を送る主人公が、外の世界に出ると、「世界の未来を救う」というような巨大ミッションの中心人物になるというストーリー展開〉をもつ作品群のことである。そこには〈日常と幻想の間にあるべき「社会」が存在しない〉。
夜神月は、自身の信じる正義のためにひたすら悪人を抹殺し「新世界の神」になろうとする。本来、社会変革のためには、もっと地道なプロセスをとる必要があると思われるが、しかし夜神月の政治参加や社会運動といった行動は一切描かれない。むしろそうした面倒なことを考えなくてよくするための装置として、簡単に人を殺せる(不思議な力を持つ)ノートが登場し、日常と幻想の直結を許してしまう。
夜神月と同様に安倍晋三にもプロセスを無視し、幻想にひたる傾向がある。そうした彼のセカイ系的傾向は、先に見た「美しい国」での主張に明らかだと著者はいう。なるほど、現在国会審議中の安保法制の論議を考えれば、ますます納得できる見解である。
このようなセカイ系的メンタリティが蔓延し、人々が社会的リアリティーを失っているために、本来は「社会」や「現実」が占めるべき位置に空いてしまった穴を埋めるものとして、『デスノート』の夜神月が体現しているような”テロル”といった荒唐無稽で極端な幻想がもてはやされたのだ。