同書には、仲子が1994年頃に、すでに山口県長門市のあるクリニックで診察を受けていたと書いてある。
「異常なほどやせ衰えた仲子は何度も『死にたい』と口走り、尋常な様子ではないことは一目で分かった。歯がぼろぼろに欠け、マスクで顔を隠していた。口にするのは少量の梅酒だけで他の食物は受け付けなかった。極度の栄養失調にも陥っていた。(略)ほっそりとした腕に刻まれたリストカットによるためらい傷が残っていたという」
そして仲子は「信夫に会いたいのに、洋子さんに奪われた」と開業医の親族に泣きながら打ち明けたという。
「洋子は岸家の血が途絶えることに思いを馳せ、信夫を養子に出した。しかし、時を経るとともに養子に出したことを悔やみ、結局信和夫妻が手塩にかけて育てた信夫を、わが子同然のように接し政治家に就かせた。それは洋子が産みの母親であるからこそ超えてはならない一線ではなかったろうか」
洋子は「岸信介の直系の後継者」として信夫を担ぎ、養父母から引き離した。しかしこの事態に動揺したのは養父母だけではない。もっとも不快感を表明したのは、岸信介の唯一の後継者を自負する洋子の次男、安倍晋三だった。02年頃、岸の元側近で自治大臣も務めた吹田愰が、信夫の政界転身の決意を晋三に知らせると、興奮した口調でこういったという。
「会社を辞めるなんて、けしからん。元に戻してやる」
それを諌める吹田に対しても、晋三は、信夫の出馬に関し態度をはっきりさせず、選挙協力を頼んでもしぶしぶといった冷たい態度だったという。著者はこの晋三の態度に対し「晋三は政治家の名門一族の後継者という衣を纏っていなければ不安で仕方がないのだろうか」と指摘しているが、これも、母・洋子の愛情と関心を独り占めしたいという思いの表れだとすれば、理解できる。
そして、以後、晋三は前にも増して、タカ派政策を推し進めていった。信夫にその座をとられないために、政策によって、岸信介の正統な後継者たろうとしたということだろう。
内田樹は『日本戦後史論』(徳間書店/共著・白井聡)のなかで、安倍首相の政治的主張を「借り物」で「腹の底から出てきた言葉ではない」と指摘していたが、たしかにこうして見ると、その意味が分かるような気がする。安倍首相にとっては、改憲ですら、自分自身の頭で考えたものではないのだ。祖父の思いを継承することも、祖父の政治信条に心から共感しているわけではない。その奥にあるのは「おじいちゃんが成し遂げられなかったことを自分が達成すればお母さんに褒められる」というマザコン的なメンタリティ。
しかしだとしたら、そのマザコンを慰撫するために、戦争に引きずり込まれようとしているこの国の国民は、不幸としかいいようがないだろう。
(野尻民夫)
最終更新:2017.12.23 06:42