それがもろに出ているのが主人公の孫が訪ね歩いた祖父の戦友たちの証言だ。彼らはさんざん孫に戦争体験を語り聞かせながら、その一方で、彼らの台詞の中にはこんな言葉が頻繁に登場するのだ。
「戦後になって、ミッドウェーの敗北の原因をいろいろ本で読んで知りました。」
「戦後になって、この時のことが「運命の五分間」と言われて有名になりましたね」
「もっとも今、お話ししていることはすべて戦後に知ったことです」
「もっともあの島で何が行われていたのかを知ったのは戦後です」
「これらも戦後知った知識です」
おそらく、この「戦後になっていろいろ本で知った」というヤツが、今、ネットで盗作ではないかと指摘されている記述の一部なのだろう。まあ、「本を読んだ」という登場人物が出てきて、その本の内容を語っているわけだから、盗作というのはちょっとちがうと思うが、しかし、わざわざ登場した戦友が生の体験でなく、「戦後」に知った情報を語ってしまうということ自体が、この小説の本質を物語っている。
ようするに、『永遠の0』は戦争のリアリティなどかけらも知らない百田が、現代の平和ボケの頭で、戦記物や戦闘シミュレーションをつぎはぎして、それらしい物語にしているだけなのだ。だからこそ、無意識のうちに飢えや戦友同士の殺し合い、強姦といった戦場の悲惨さの描写をネグり、戦術をああだこうだと、まるでスポーツの試合かヒーローもののように、戦争をエンタテインメントとして扱ってしまう。
しかも、最悪なのがそのことに対して、百田自身がまったく無自覚なことだ。
『殉愛』騒動で“噓八百田”と呼ばれるようになった百田だが、「『永遠の0』は戦争賛美でない」というのは決してウソをついているわけではなく、おそらく本気でそう思い込んでいるのだろう。それは、ネトウヨたちが戦争の悲惨さや狂気を見ずに、自分は戦場に行く気などさらさらないのに、「日本を守るために他国を攻撃するのがなぜ悪い!」と叫んでいるのとほとんど同じだ。
今回のドラマについて、百田ツイッターで「2時間半の映画では描かれなかったシーンがふんだんにある」「ドラマは原作をなぞって丁寧に作られたものだった」と語っている。実際、このドラマ版は映画より原作にかなり忠実なつくりとなっているようだ。
この平和ボケ的戦争賛美の広がりを止める術はないのだろうか。
(酒井まど)
最終更新:2017.12.13 09:27