〈新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんけど、成熟させずに捨てるなんて、ごっつもったいないで。新しく生まれる発想の快感だけ求めるのって、それは伸び始めた枝を途中でポキンと折る行為に等しいねん。だから、鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんどが衰退する。確立するまで、待てばいいのにな〉
神谷に強烈に惹かれながらも、その敵をつくってでも自分を貫く信念の強さに、息苦しくなっていく徳永。やがて徳永は漫才で生計を立てられるようになるが、そんな徳永の漫才を見て、「もっと徳永の好きなように面白いことやったったらいいねん」と言う神谷。しかしそれが徳永には「出来ない」のだ。
〈僕たちは世間から逃れられないから、服を着なければならない。何を着るかということが絵画の額縁を選ぶだけのことであるなら、絵描きの神谷さんの知ったことではない。だが、僕達は自分で描いた絵を自分で展示して誰かに買って貰わなければいけないのだ。額縁を何にするかで絵の印象は大きく変わるだろう。商業的なことを一切放棄するという行為は自分の作品の本来の意味を変えることにもなりかねない。それは作品を守らないことにも等しいのだ〉
表現の質を追求することと、商業的に成功すること。そのバランスを著しく欠いた神谷と、その狭間で悩む徳永がどのような道を選ぶのか。……ラストの展開には賛否がありそうな気がするが、そこの驚きも含めた上で十分に楽しめる出来だ。芥川賞や直木賞との声が出るのも、わかる。
しかし、「大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた」などという冒頭の一文に象徴されるように、文章は純文学コンプレックスが空回りしている部分も散見される。テーマも様々な小説で繰り返し書かれてきたことで、たいして新しいというわけではない。
にもかかわらず、この時期から又吉の作品が「芥川賞あるいは直木賞にノミネート確実」といわれるのは、なぜなのか。それは、小説のクオリティだけでなく、又吉にどうしても賞を獲らせたい出版界の事情があるからだ。
世間では小説離れが叫ばれて久しいが、ここ数年、出版界では“一部の売れる小説”と“多くの売れない小説”の差がどんどん開いている。しかも、売れる作家の数もどんどん少なくなっており、たとえば2014年の小説ベストテンも「半沢直樹」シリーズの池井戸潤、本屋大賞を受賞した和田竜、村上春樹、東野圭吾、西尾維新、百田尚樹と、たった5人の作家が分け合っていた状態。ほとんどの小説が増刷できず初版どまりで、その初版部数も純文学なら5000部以下や、エンタメでも1万部に届かないということもザラだ。
又吉の小説にならっていえば、出版界は小説を売るための〈額縁〉が喉から手が出るほど欲しい状態なのだ。そして、ひとつ〈額縁〉が見つかれば、その〈額縁〉にみんなが群がる……。冒頭、出版界で又吉が引っぱりだこと書いたが、それも又吉の人気にあやかって本や雑誌を売りたいがためのこと。とくに純文学系に造詣の深い又吉の存在は、救世主に近いほど貴重だ。──ここで、「人気といっても、又吉ってもう落ち目じゃない?」と感じる人もいるかもしれないが、たしかにお笑い芸人としては明らかに一時の勢いは失っている。しかし、落ち目の芸人にすがらざるを得ないほど、出版界は貧しているのだ。