「長期的な調べで、からだも疲れきって、ほとんど寝られないような状態で、その朝、9月6日だと思いますが、いつもと同じように引張り出されまして、そしていつにも増してテーブルをぶったたいたり、怒鳴ったりで、わたしは頭が痛くて、めまいもするし、とても疲れちゃって、午前中休ましてくれ、と頼んだです。ところが『だめだ』、と、『認めりゃ、休ましてやる』こういって警察官がいいまして、私が目をあいたら、調べ室がぐるぐるまわり出したもんですから、テーブルに手をついて、手をつくだけでも転びそうだものですから、頭をつっぷしていると、テーブル叩いて、『なんだ、その態度は』と、テーブルどんどん叩いていうので、静かにしてもらいたいから、『昼から、あんた方のいうように認めるから、午前中、休ましてくれ』といったのが、10時頃ではないかと思うんです」(昭和42年12月8日、第22回静岡地裁公判調書)
ところがこうした袴田さんの話は、取り調べ室にいた巡査部長によれば「袴田は、自分のひざの上に両手を開いてついて、私の話を聞いておったわけですが、その両方の手を握りしめまして、こぶしをつくって顔をあげて、ぽろぽろと涙をこぼして『申しわけありません。私がやりました。うちのことはよろしくお願いします』というように断片的でありましたが申しました」とこんな具合に変貌している。取り調べ状況についての食い違いはこの場面だけでなく多々あったことが本作には記されている。
とはいえ、これはまだ可愛い方だ。この事件における最大の問題は捜査機関によると思われる証拠の捏造、そして事件の骨子を早期に組み立て早くから袴田さんを犯人と決めつけてしまい、それに沿うように捜査を進めた点にある。実況見分調書にある証拠品発見の状況と、その後の警察発表による報道が微妙に食い違っていき、いつのまにか事実でないことが事実として広まってしまったりする、ということが本件ではたびたびあったようだ。例えば作者によれば、事件直後の7月4日、袴田さんの居室からシミの付いたパジャマが発見されたことについて、新聞社各社は次のように伝えている(すべて7月5日付朝刊)。
「多量の血こんが付着していた」(静岡新聞)
「血のついたパジャマと作業衣が発見され」(朝日新聞)
「特別捜査本部の発表によると、パジャマには多量の血こんがついており、作業着にも血こんがついている」(毎日新聞)
袴田さんによるとパジャマは事件当日に着用して眠っており、火事に気づきそのまま消火活動をしたという。捜査本部はこのパジャマを着て犯行に至ったという筋書きを組み立てていた可能性がありありと伺える。実際、袴田さんの自白調書にはパジャマを着てその上にゴム製のカッパを着て犯行に及んだと記載されていた。消火活動にあたっていた従業員らの調書にも、袴田さんがパジャマを着て頭からずぶぬれになっていた、という記載がある。
ところが、事件から1年後の67年8月31日、「こがね味噌」工場の一号タンクから、味噌の中にうまった状態の5点の衣類が見つかり、これらには多量の血痕が付着していた。さらにマッチ箱と絆創膏も同タンク内から発見された。一審公判真っ最中の時期だったが、なんと検察官は冒頭陳述を変更。犯行時に着ていた着衣はパジャマからこのとき発見された衣類に取って代わったのである。