しかし、これが過剰反応だったのは、「週刊文春」(文藝春秋)がその少し後、6月19日号で「雅子さまは『雪の女王』か」という記事を掲載したことからも明らかだろう。
もっとも「文春」の記事のほうは中森氏と同じ雅子妃=雪の女王説にたっていても、趣旨は逆で、かなり踏み込んで雅子妃批判を大々的に展開している。
まず、皇室関係者のあいだでも『アナ雪』の話題で持ちきりだとし、劇中でエルサが「Let It Go」を歌い上げるシーンについても、皇室関係者が「あの場面の本質は、女王が責務を放棄して『自己実現』を歌い上げていることです。どうしても“開き直りの歌”に聞こえてしまうんです」と話す。そして、映画の場面と雅子妃の過去の言動をあげつらい、「公的な立場にありながら、その役割をかなぐり捨てても“私”を実現させたいという強い思いがあったのでしょう」などという今井舞のコメントを紹介する。さらに、エルサの絶望によって王国に雪嵐が吹きすさび、「市井からは悲痛な声が漏れ」ているにもかかわらず、「民草の悲憤慷慨は、エルサに届かないのだ」と解釈し、「ご自分の影響の甚大さに気付かないところもどこか似ています」などと、雅子妃と雪の女王を結びつけるのだ。
しかし、映画では女王を批判する「悲憤慷慨」の主は実体のない匿名、もしくは国を乗っ取ろうとする勢力として描かれており、「文春」の記事の解釈は一面的すぎる。というか、いかにも雅子妃を叩きたいために無理矢理『アナ雪』にこじつけた感が満載なのだ。
このような言説に対抗するのは、評論家・荻上チキ氏の論評だ。ついには今月『ディズニープリンセスと幸せの法則』(星海社新書)まで発売した荻上氏だが、以前にもラジオ番組に出演した際、独自の『アナ雪』解釈を披露している。
たとえば「文春」は、〈(雪だるまのオラフは)真夏に生きることを夢見る可哀想な存在〉〈王国に夏がやって来て、ハッピーエンドとなる〉と解説するが、荻上氏の解釈は違い、「エルサを夏に戻すことがハッピーエンドではないんだっていうことが、実はオラフの登場によって証明される」と語る。ポイントとなるのは、オラフが歌う「あこがれの夏」の歌詞〈暑い夏と寒い冬 二つ合わせたら もっといい〉という部分だ。そう、『アナ雪』が描こうとしたのは、「魔女と共生するための道を探る物語」だからだ。
エルサはラストシーンで、自らの能力を街の住人たちの前でもさらけ出すようになっている。これはエルサが望んだ“自由”だ。「だけども、それは自分だけで自由を解放するっていうことじゃなくて、まわりとともに生きることが重要なんだっていう。そうしたものが描かれている」と荻上氏は言う。