安倍首相は2004年に『この国を守る決意』(扶桑社)という対談本を出版している。対談相手は元外務官僚で安保法制懇メンバーでもあった岡崎久彦氏だ。その中で、安倍首相はこう語っている。
「祖父の岸信介は、六〇年に安保を改定してアメリカの日本防衛義務というものを入れることによって日米安保を双務的なものにした。自分の時代には新たな責任があって、それは日米同盟を堂々たる双務性にしていくことだ」
双務性とは、日本が攻撃を受けた時にアメリカに守ってもらうだけでは片務的で、その逆、つまりアメリカが攻撃を受けた時には日本がアメリカと同じように出ていかなければ、という考え方だ。その理由について安倍首相は同書でこうも言っている。
「軍事同盟というのは血の同盟であって、日本人も血を流さなければアメリカと対等な関係になれない」
これについて、伊勢崎氏はこう喝破する。
〈この「血」というのは当然、ご自分の血ではなく「人」の血、自衛隊の「血」です。安倍首相が言う「双務性」が達成されるには、自衛隊に死者を出す必要があると言っているのです。〉(前掲書より)
なんと安倍流の考えでは、自衛隊員が死んで「血の絆」をつくらなければ日米同盟は真の同盟になれないという。そんなバカな話はないだろう。実際、伊勢崎氏が接してきたアメリカやNATO加盟国の間には「血の絆」のようなウェットで曖昧な関係はまったく存在していない。“同盟”は限りなくプラグマティック(実利的)でドライなものだというのが、紛争の現場を知る者の常識だ。
この安倍流「血の同盟」のきっかけになっているのが「湾岸戦争のトラウマ」だ。1991年にクウェートへ侵攻したイラクを叩くために始まったこの戦争で、日本は130億ドル(約1兆7000億円)もの資金協力をした。ところが戦後、当事国のクウェートが米ワシントンポスト紙に出した「世界の国々にありがとう」と題した全面広告に日本の名前がなかったのだ。
これが、いくらカネを出しても人(自衛隊)を出さなければダメだという発想の原点になっている。安倍首相がこのトラウマに囚われているのは明らかで、自著『美しい国へ』(文藝春秋)でこう告白している。
〈このとき日本は、国際社会では、人的貢献ぬきにしては、とても評価などされないのだ、という現実を思い知ったのである。〉
「湾岸戦争のトラウマ」は、集団的自衛権に関する論議でも繰り返し使われた。だが、日本人には知らされていない事実がある。それは、日本が支出した約1兆7000億円のうち直接クウェートに払われたのはわずか数億円で、1兆円以上のカネはアメリカのために使われていたということだ。さらにそのこと、つまり湾岸戦争の戦費の大半は日本が負担したという事実を日本の外務省がクウェート側へきちんと説明していなかったというのである。
これでは広告に名前が出ないのも無理はない。ところが日本の政治家たちは勘違いした(あるいは、意図的に)。一方、外務省にとってはことの経緯が表沙汰になると失点になる。だから「お金だけではダメだ」「汗をかけ」「自衛隊を出さなければ」というロジックにすり替えられていった。