「結論から先に述べてしまうと、美智子さんは歌舞伎座へ行ってはいなかった。歌舞伎を見たあと、さらに食事に席を移したというお見合いの事実もない」
ある関係者によれば、三島が美智子さまとお見合いをしたという昭和33年2月には、すでに皇太子(現天皇)自身は美智子さまを意中の人と真剣に考えていた時期で、三島の誘いなど絶対に受けるはずはない、と。
一体どういうことか。工藤はこう記す。
「三島は『なぜだかは分からぬが』、一方的に美智子さんの面影を追いかけ、終いには『見合いした』という妄想を抱くにいたったのではないか」
その理由はいくつかある。三島という作家につきまとう「伝説」がそのひとつで、三島自身が「伝説」を巧みに物語化した。それが流布され拡散していったというもの。そしてもうひとつが三島の聖心女子学院への思い入れだ。
「彼の抱いていた、聖心女子学院へのことのほか深い思い入れである。いくつかの事実を重ね合わせていくと、その執心が浮かび上がってくる」
三島には17歳で急逝した3歳年下の妹がいた。三島は愛おしく思い、また最期も健気に看病したことが知られている。その妹が通っていたのは聖心女子学院だった。また三島の初恋の相手で「仮面の告白」や「岬にての物語」などのモデルとなり、三島作品に大きな影響を与えた女性もまた聖心女子学院の学生だった。
そして工藤はこう結論づける。
「聖心女子学院や皇室への独自の思い入れから「釣り書き」を見ただけで『見合いをした』ように想像が膨れ上がり、母・倭文重もまた同じ夢を見ていた。いかにも三島由紀夫とその母らしい想念といえよう」
皇太子妃に密かに恋いこがれ、壮大な妄想を膨らませていった三島。それにしても、「歌舞伎座で束の間の逢瀬」「淡い水色に花柄の和服」「東五反田の自宅までタクシーで」と単なる妄想とは思えないディテールだ。妄想にも三島らしいさすがの緻密な構築力が発揮されている。それゆえ、「美智子さまとの見合い」という荒唐無稽な妄想を周囲の人も信じ込んでしまったのかもしれない。
(林グンマ)
最終更新:2015.01.19 05:36