さらに工藤によると、三島の自決後、三島の母・倭文重も2人の見合いについて語っていたというのだ。それは、倭文重が女優で演出家の長岡輝子と交わした会話でのこと。
「あの子には、ふたつだけかなわなかったことがある」と倭文重。
そのひとつが、ノーベル賞を受賞できなかったことなのだが、もうひとつが三島の結婚に関してだった。
「本命の人と結婚できなかったんです。お見合いをして、不成立の縁談で、唯一、心残りの方がありました」
「どなたですか?」と長岡が聞くと、倭文重はこう答えたのだ。
「正田美智子さんです」
これだけでも驚くが、さらに倭文重はこんな衝撃的発言をしたという。
「もし、美智子さんと出逢っていなければ、『豊穣の海』は書かなかったでしょうし、自決することもなかったでしょう」
また、音楽評論家・高橋英郎も著書『三島あるいは優雅なる復讐』(飛鳥新社)で、三島と美智子皇后の見合いについて書いている。工藤はそこから、こんなくだりを記事内で紹介している。昭和33年2月、三島は美智子皇后の「釣り書」を見て、美智子皇后を歌舞伎座に誘うことにした。
「隣席を用意して待っていると、間もなく淡い水色に花柄を添えた春らしい和服姿の美智子さんが現れた。目利きの三島が目を奪われたことは確かだ」
「歌舞伎座でふたりが出会って、束の間の逢瀬を許され、すぐ別れねばならない人を惜しむかのように、三島は彼女を品川区東五反田の自宅までタクシーで送り届けた」
実はこの見合いエピソード、多くの文献があり知る人ぞ知る話として流布されているものだ。しかし今回、2人の見合いを検証し、関係者に取材を重ねた工藤が辿りついたその後の結末は、さらに驚くべきものだった。