「いや、それは思考停止。判断をしていない。報道は公正であるべきで、“見せかけの公平さ”なんてものに意味はない。マイノリティを攻撃して差別し、排除しようとする在特会を叩くことこそが、社会的に見て“公正”であり公平さを重視した態度にきまっているでしょう。しかし彼らを叩くと、自分たちに攻撃の矛先が向く。それが面倒だからやらないだけでしょ。だから、一応公平に書きましたよ、みたいな形式をとる。これによってなにが起きるか。それは、議論の当事者になることの放棄です。マスコミは“議論すべきだ”と言うが、自身はその議論に参加ないわけ。そのうえに公正なジャッジすらできない」
野間はこれまでずっと、「冷笑主義者」の「どっちもどっち論者」と戦ってきたと語る。彼らは「自分をリベラルだと思って」おり、「正義と言っている側にもじつは不正義があるのだ」という話を好む。たしかに、思い当たる節がないわけではない。だがそれでも、ひとつの立場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らかだ。
「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要ですか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだって聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中にも不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができるわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みたいな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと普通に考えろよということです」
野間によれば、この「価値の相対化」こそが、在特会的なるものを生み出す背景になっているという。
「在特会自体も、そういう価値相対主義の上でなりたっている。〈「反差別」という差別が暴走する〉を書いた深田政彦みたいなやつはレイシストだとは言わないが、そうした価値観の混乱こそが今の日本のレイシズムの温床であり、本体でもあるんだよね。ようするに、ポストモダンの失敗例なんです」
「近代」という“大きな物語”が終わり、価値の相対化が生じるなかで、人々は個別に“小さな物語”を生きざるをえなくなった。それがポストモダニズムのひとつの前提である。たしかに、在特会など自称「行動する保守」の試みは、外交上の政治的失敗を経て「戦後」の価値観が揺れるなか、これまでの歴史の枠組みを破壊し、「市民」自らの手で再構築しようとするものなのかもしれない。
だが、なぜこうした動きがレイシズムへと繋がったのか。野間は、在特会的なるものの正体をどのように考えているのか。そして、その歪な感情の矛を収めさせるには、どうすればいいのか。やはり“怒り”に根ざした行動をとるしか方法はないのか。しばき隊のように。野間は語りだした。
「実は、うちの親戚にもネトウヨ化している人がいるんですよ」
後編へ続く。
(語り手・野間易通〈敬称略〉/聞き手・文=HK・吉岡命)
■野間易通プロフィール
1966年生まれ。フリー編集者。首都圏の反原発運動を経て、2013年1月に「レイシストをしばき隊」を結成。排外デモへのカウンター活動の先陣を切る。13年9月にしばき隊を発展的に解散。新たに反レイシスト行動集団「C.R.A.C」(Counter-Racist Action Collective)として活動を続ける。
最終更新:2014.09.24 08:45