ようするに、『ロリータ』はこうした支配関係や脅しに基づいた「性行為強要」「性搾取」の描写に満ちているのだ。
もちろん文学作品なので、善悪を糾弾するものではないし、そもそも『ロリータ』はハンバートの告白手記という体裁をとっているため、ハンバートの一方的な思い込み、心理状態が延々描かれる。しかも、それが豊穣な言語表現で描写されるため、ハンバートの倒錯じたいを美しいと感じる読者もいるだろう。
しかし、少なくともナボコフ自身は小児性愛を「恋愛のひとつのあり方」として美化するのでなく、支配関係に基づいた「性的虐待」であるということが十分に読み取れるように描いている。そしてロリータの心情は一切書かれていないが、ロリータがこの関係においていかに無力であるかもきっちり描かれている。
映画も同様だ。小木が観たのが、1962年のスタンリー・キューブリック版なのか、1997年のエイドリアン・ライン版なのかは不明だが、いずれの映画でも、ロリータの年齢を原作の12歳から14歳に変更している一方で、原作に比べ主人公の中年男性ハンバートに多少の同情・理解を誘わせるようなアレンジも見受けられるものの、「ロリータにとって唯一の「保護者」として、支配関係のもとで性行為を強要」するというストーリーはそのまま。ハッピーエンドでもなければ美しい恋愛譚でもない。
そういう意味では『ロリータ』は「14歳の少女と中年男性の美しい恋愛」などという限界事例などではなく、むしろ義父による性的虐待・という性被害のど真ん中の事例なのだ。
それを持ち出して、「14歳の女性っていうのは、時には子どもっぽい、時には妖艶な雰囲気を醸し出すとか、とても複雑な年齢の、とてもいい映画」などと、まるで少女の中にある「性」が原因になっているかのように、解説するのは、性的虐待の肯定、性被害の原因を女性に押しつけるミソジニー的発想と言うほかない。