実はこうした「日本人の受賞を大々的に報じるべき」という意見を口にしているのは、ネトウヨだけではない。日本国内のマスコミ報道じたい、近年、「日本人の受賞だけしか関心がない」という傾向が強くなっている。
たとえば、グラミー賞以外のアカデミー賞やカンヌ・ベルリン・ヴェネツィアの三大映画祭、ノーベル賞など、世界的に知名度や権威のある賞の発表もそうだ。受賞した作品や研究が現在の世界や人類の歴史において、どういう意義があるかではなく、ひたすら「日本が認められた」「日本スゴイ」の文脈でニュースをたれ流している。
その最たるものが、あの「ノーベル文学賞は外国人に」報道だろう。2019年11月に発表されたノーベル文学賞では、選考委員の不祥事で見送りとなっていた前年分と合わせて、2018年受賞者であるポーランドのオルガ・トカルチュクと2019年受賞者であるオーストリアのペーター・ハントケの、2名の受賞が発表されたのだが、この発表を受けた共同通信が速報で報じた記事タイトルが「ノーベル文学賞は外国人に」だったのである。
タイトルだけではない。本文も〈スウェーデン・アカデミーが10日発表した2018年、19年のノーベル文学賞受賞者は、いずれも日本人ではなかった〉というもので、受賞者の名前も一切触れず、「日本人は受賞しませんでした」とだけ報じていた。
これは、国際的な賞をめぐる日本マスコミ報道がネトウヨ並みに「日本スゴイ言説に有用かどうか」が価値基準になってしまっていることの証左といえるだろう。
実際、国際感覚も教養もはなはだ欠如しているこうした日本のメディアの姿勢は、国際社会で失笑を買っている。
たとえば、共同通信の「ノーベル文学賞は外国人に」報道について、ロイター通信日本支局長のウィリアム・マラード氏は、自身のTwitterで〈共同通信の年間最優秀見出し〉と投稿。
このマラード氏の皮肉に、米国の有力政治系ウェブメディア「Politico」のベン・ルフェーヴル記者が〈日本にいる外国人の何人が「受賞したの私かな?」って思ってメールの受信ボックスをチェックしてるんだろうね〉とユーモラスなリプライを送ると、ロイター日本支局長はこう返していた。
〈私が英語を教えていたとき、ある男の子からこんな質問をされたことを思い出したよ。「“ガイコク”は今何時なの?」ってね〉