このパフォーマンスは、大臣就任時の閣僚リレー会見への批判発言もまったく同じだ。
深夜に及ぶ閣僚の就任会見について、河野行革相は「各省に大臣が散ってやりゃあ、もういまごろみんな終わって寝てますよね。それを延々、ここでやるというのは前例主義、既得権、権威主義の最たるものだと思いますんで、こんなものさっさとやめたらいいと思います」と批判。翌日にはその様子がさっそくニュースやワイドショーで取り上げられ、テレビのコメンテーターもネット上も「まったくそのとおり」「よくぞ言った」と河野行革相を褒めそやした。
しかし、「あり方を見直して翌朝におこなうべき」などと言うならまだしも、閣僚が国民の知る権利にこたえる場である会見を「やめたらいい」などと言うこと自体、本来は大問題発言だ。
しかも、河野行革相は「各省でやればいい」と言うが、省庁で同時にやれば国民がすべての会見を生で見ることができなくなる。さらに、省庁でおこなう会見が個別の政策について掘り下げる場である一方、官邸でおこなう会見のほうは大臣としての資質やどういう政治思想や背景を持っているのかといったことを質す場でもある。実際、かつてはその内閣が掲げる政治的課題や国民から求められている課題、あるいは歴史認識などについて、全閣僚に質すというようなことがおこなわれていた。つまり、会見としての意味合いはまったく違うのだ。
行政改革を訴える立場なのだから会見日程の見直しを訴えればいい話なのに、時間帯の問題を取り出して官邸会見自体が無駄であるかのように話をずらし、「やめるべき」など叫ぶ──。ようするに、河野行革相の発言はたんに国民に説明する場を減らそうというだけのものなのだ。実際、河野氏は外相時代に会見で記者から受けた日露関係の質問をすべて「次の質問どうぞ」で押し通し、何ひとつ答えないという前代未聞の態度をとった前科があるが、会見を減らそうとすることは大臣としてあるまじきものだ。
この、「前例主義」だの「既得権」だのを叫ぶことで威勢の良さを見せ、「改革」という名で本来必要なものをぶっ壊すという手法は元大阪市長の橋下徹氏とまったく同じやり口だが、それを菅首相は国政で展開すべく、その役割を河野氏に担わせた。そして実際に、どう考えても批判されるべき「会見やめろ」発言や「行政改革目安箱」が、「さすがのスピード感」「突破力が違う」などと評価されるという状況が生まれているのである。
これはリベラル層も同じだ。河野氏といえばハト派の重鎮だった父・河野洋平氏の存在や、原発事故以前から脱原発を訴えてきたことなどから「自民党内リベラル」という印象をもっている人も多いが、それはすでに過去のことであり、河野氏はアメを与えられて尻尾を振り、主義主張も簡単に変えて寝返ってきた。実際、最近ではネトウヨの支持をとりつけるために「北朝鮮との国交断絶」を叫んだり、徴用工問題ではわざわざマスコミのカメラの前で駐日韓国大使の発言を遮って「極めて無礼」などと怒り出す“嫌韓パフォーマンス”を繰り広げる始末。さらに、17日の会見では、沖縄に基地が集中している問題について「それをメリットにしていくことを真剣に考えないといかん」などと言い出し、基地の存在によって沖縄の中高生の英語力強化につなげようとする暴言まで飛び出した。
この調子で河野行革相が持て囃されつづければ、その「突破力」という横暴によって、菅首相が目指す官邸支配の強化や「まずは自分でどうにかしろ」という自己責任社会、ネトウヨ人気を維持するための嫌韓嫌中はどんどん進んでいくことになる。だからこそ、菅政権のなかでもとりわけ河野行革相の言動にはよりいっそう注視する必要があるだろう。
(編集部)
最終更新:2020.09.19 02:21