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立川志らくが古典落語に「日本人かてめえ」のヘイト盛り込み! 批判を受けた志らくの反論がゴマカシだらけで酷い

 ところが、前述のように、こうした批判を受けた志らくはTwitterでワケのわからない言い訳を始めたのである。

〈その台詞は先人の引用。それと江戸っ子は江戸っ子こそ最高だと思って田舎者を排除してきた言わばヘイトの塊歴史がある。明治になり地方出身者が都会に押し寄せその考え方が通らなくなるのです。妾馬は身分制度へのアンチテーゼがテーマ。卑しいは失礼です〉

 志らくは「先人の引用」というが、念のため六代目三遊亭圓生や五代目古今亭志ん生の「妾馬」のCDを聞いてみたところ、「日本人かてめえコノヤロウ」というセリフはなかった。だいたい、文脈的にも「日本人かてめえコノヤロウ」とキレる必然性はないし、このセリフを入れなくても話の筋はかわらない。「江戸っ子のヘイトの塊歴史」というのも取ってつけた言い訳の匂いがプンプンしてくる。そもそも、江戸時代に庶民が自分たちを「日本人」と呼ぶことはまずあり得ないだろう。

 あげく、〈ヘイトだ、パワハラだ、男尊女卑だと言われたら落語は一切出来なくなります〉などと説教をぶつのだから呆れる。だいたい(志らくもわかっているはずなのだが)古典落語というのは演者が自分なりの解釈でアレンジするのが当たり前で、時代にそぐわなければ言葉遣いや演出を変更するものだ。実際、柳家花緑なんかは「妾馬」の同じ場面で、「どういう用でここにきたかを聞いとるにゃー!」と言う門番への八五郎の返しとして「猫だね、まるで」というセリフを使っている。

〈セクハラの見地から言えば小津安二郎の名作映画もそのほとんどがセクハラになってしまう。文化の崩壊〉という言い訳に至っては、完全に噴飯物だろう。おいおい、いったい誰が小津の話をしているというのか。

 そういえば志らくは去年も、桜田義孝・元五輪担当相の「子どもを最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」という女性蔑視発言が問題になったとき、『ひるおび!』(TBS)で「昭和の時代なんかはそういうの普通に映画のなかでもあるじゃないですか」と言って擁護していた。ようは、この落語家は「昔なら問題にならなかった」という言い訳がお好きらしい。こんな感覚で情報番組のMCをやっているのだから、文化がどうこう言う前にバカ丸出しだろう。

 落語だろうが、小津映画だろうが、もし仮にその芸術的価値が差別性にしかないのだとしたら、ミンストレルショーのように、人権意識の更新によって評価が減じたり淘汰されるのは必然だろう。白人至上主義やセクシズムの権化だったディズニーが、近年は多様性やフェミニズムを意識した作品作りで必死にアップデートしているのもそのためだ。

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