『トリック』からひとつ、“史料の意図的な切り貼り”の例示しておこう。『なかった』は、横浜地裁の長岡熊雄判事の手記の一部を“横浜で朝鮮人が暴動を起こした証拠”として引用している。そこには震災当日、横浜港に停泊していた船に避難していた長岡判事が下船したいと「事務長」に申し出ると、「陸上は危険ですからご上陸なさることは出来ない」と言われたとしてこう続く。
〈何故危険かと問へば『鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強かん、殺人等をやって居る。殊に裁判所付近は最も危険で鮮人は小路に隠れてピストルを以て通行人を狙撃して居るとのことである。若し御疑あるならば現場を実見した巡査をご紹介しましやう』といふ〉
『なかった』による長岡判事手記の引用はここで止められている。ところが、引用されていないその続きには「現場を実見した」とされていた「巡査」に会うくだりが登場する。そして、長岡判事が暴動の真偽を確かめると、巡査はここう言ったという。
〈『昨日来、鮮人暴動の噂が市内に喧しく、昨夜私が長者町周辺を通つたとき、中村町辺に銃声が聞こえました。警官は銃を持つていないから暴徒の所為に相違いないのです。噂に拠れば、鮮人は爆弾を携帯し、各所に放火し石油タンクを爆発させ、又井戸に毒を投げ婦人を辱しむる等の暴行をして居るとのことです。今の処、御上陸は危険です』といふ〉
ようするに、実は巡査も「現場を実見した」わけではなく、「噂」を聞いたにすぎないのだ。「銃声」もまた、そうした音を耳にしただけで実際に朝鮮人が発砲した現場を見たわけではない(加藤氏によれば当時は銃所持の規制は緩く、実際、「猟銃を撃つ自警団の男の話」が掲載されている別の手記の存在が指摘されている)。
この時点で、史料から伺えるのは震災直後に流言が飛び交っていたということであり、まして“朝鮮人暴動の証拠”たりえないのは明白だが、さらに、永岡判事の手記には朝鮮人虐殺の記録が書かれていた。下船した長岡判事は自宅のある品川に向かうなかで目撃したことをこのように記している。
〈壮丁が夥しく抜刀又は竹槍を携へて往来し居る、鮮人警戒の為だといふ〉
〈壮丁の多くは車男鳶職等の思慮なき輩で兇器を揮て人を威嚇するのを面白がつて居る厄介な痴漢である。くわえて之を統率する者がないので一人が騒げば他は之に雷同する有様で通行人は実に危険至極である。道にて鮮人の夫婦らしき顔をして居る者が五六人の壮丁の為詰問せられ懐中を検査せられて居るのを見た〉
〈生麦から鶴見に行く、比辺の壮丁も抜刀又は竹槍を携へて往来して居る。路傍に惨殺された死体五六を見た。余り惨酷なる殺害方法なので筆にするのも嫌だ〉