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稀勢の里「歪なナショナリズムのアイコン」として政治利用された相撲人生! 受け続けた「日本スゴイ」の重圧が…

 そして、特筆しておかなければならないのは、稀勢の里をナショナリズムのアイコンとしてかつぎあげたこの政治利用は、彼らがひいきにする稀勢の里自身をも苦しめた、ということだろう。星野智幸氏は前述のコラムで日本人力士に贈られる手拍子の異常性について書いた後、こう続けている。

〈稀勢の里はこの手拍子の重圧に負けたようなものである。象徴的だったのは秋場所初日で、稀勢の里にはとてつもなく盛大な手拍子が起こったときである。ガチガチに硬くなった稀勢の里はいきなり負けた。
 その場所の稀勢の里は負けが込み、優勝は日に日に遠のいていく。すると、手のひらを返したように手拍子は消えた。そして、序盤は何の期待もされなかった豪栄道に優勝の芽が出てきたとたん、まるでそれまでも主役だったかのように分厚い手拍子が送られた。〉

 稀勢の里が2017年に19年ぶりの日本人横綱となった後、1回優勝したのみで、ほとんど活躍できなかったのも、ナショナリズムや純血主義を背負わされたことと無関係ではないだろう。

 稀勢の里は、2017年春場所に負った左胸周辺の負傷が原因で、それ以前の相撲が取れなくなったと言われるが、この負傷を深刻なものにしたのは、それこそ、観客やメディアが「日本スゴイ」の象徴として稀勢の里を祭り上げ、「日本人横綱」として強行出場し続けざるを得ない空気をつくりあげたためだった。「スポーツ」と「国家」を結びつけ、そこに「日本スゴイ」の象徴をつくりだすこのグロテスクな動きは、アスリートにもマイナスしかもたらさない。

 しかし、連中が、そんなことを反省するはずもない。手拍子の対象を変えるように、稀勢の里のことなどすぐに忘れて、また、新たなナショナリズムのアイコンを探し出すのだろう。

 前出のコラムで星野氏は、もともと被差別民の文化であった大相撲の歴史的起源を紹介しながら、いま起きている現象をこう批判している。

〈その相撲がいつの間にか、純血を求める国威発揚の場に変わろうとしている。恐ろしいのは、この線引きはごく自然なことであり何もおかしいとは感じない、という人のほうがもはやマジョリティとなっていることだ。それが今の日本社会の反映であることはいうまでもない。〉

 こうしたスポーツとナショナリズムの問題は相撲だけに限った話ではない。2020年の東京五輪に向けて、この危険な現象はますます進行してしまうのだろうか。

最終更新:2019.01.19 09:34

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