“今のご時世ではセクハラは御法度”という言葉の裏にあるのは、“昔は容認されていたのに”という本音だろう。「今の時代は」というエクスキューズは、セクハラ被害を時代によって良かったり悪かったりするものとして、相対化し、矮小化するものだ。「そこまで悪いことではない」「いまの時代は窮屈」というセクハラに対する意識も透けて見える。
“昔はセクハラし放題で良い時代だった”。そんな歪んだノスタルジーさえ感じるが、これがいかにおかしな話か考えてみてほしい。たとえば江戸時代の武士が明治時代になってから「昔は気に入らないヤツを切り捨て御免できたのに」とか、白人経営者が「昔は黒人を奴隷で使い放題だったのに」などと言っているのと同然なのだ。
しかし、かつて武士や白人が特権を謳歌する一方でそれ以外の人々は基本的人権も認められず虐げられていたように、かつて男性たちがセクハラ的言動をとがめられない一方で多くの女性たちはセクハラ被害を受忍させられていた。
石田が指摘するとおり、昔はセクハラ被害がなかったわけでもセクハラがオッケーだったわけでもなく、単に「女性が我慢させられていただけ」にすぎないのだ。
確かに“今の時代は”発言の背景には、かつてはセクハラの概念さえなかった時代や、女性がセクハラ被害を訴えることがほとんどない時代が存在したことにあるのだろう。しかし、繰り返すが、それはセクハラという性被害がなかったからではない。圧倒的男性優位社会において、上司や取引先からのセクハラなどの性被害について、なにごともなかったように、ましてや笑ってやり過ごすことが、働く女性の美徳や職能とされ、本心では傷ついていてもそれを表面に出さないという処世術を身につけざるを得なかったからだ。
バブル世代でもあるフリーアナウンサーの長野智子は4月21日のブログで「昔は平気だったと言いたいのか。こういう男性を増長させたのは我々世代の女性なのか」と自身の体験を自戒をこめてこう吐露している。