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初防衛戦を前に、村田諒太が安倍政権の国民栄誉賞に異論!「政治的な広告価値があるかどうかで判断している」

 念のため言っておくと、村田選手は別に、羽生選手に授賞するなと言っているわけでも、単なる印象論で国民栄誉賞を批判しているわけでもない。それは「週刊新潮」のインタビューを読めば明らかだろう。むしろ逆で、村田選手は「公平性とは何か」を高いレベルで考えたうえで、国民栄誉賞を批判している。

 読書が趣味という村田選手。雑誌やテレビでも哲学者と対談したり、心理学者のアルフレッド・アドラーや神学者のラインホルド・ニーバーの言葉を参照したりするなど“読書家”の一面が知られるが、「週刊新潮」のインタビューでも、冒頭で引用した“国民栄誉賞批判”の前に、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』について語っている。

 村田選手が『夜と霧』で感銘を覚えたシーンのひとつとして挙げているのは、こんな場面。ナチスの強制収容所で、ほとんどの給仕係が自分の個人的な仲間にだけ具のじゃがいもが多く皿の中に入るよう優遇する。しかし、「F」という給仕係だけは被収容者の顔を全く見ずに公平にスープを分け与えていた。その文字通り「人によってスープの中身を変えない公平」さに胸が打たれたという、フランクルが紹介したエピソードだ。

 村田選手は、そのシーンを読み返して、昨年、同じミドル級の世界的スター選手同士が対決した、ある試合を思い出したという。

 これはボクシング界が待望してきた2017年最大のビッグマッチで、パウンドフォーパウンド(もし体格が同じと仮定したら全階級通じて一番強い選手)と呼ばれる無敗の王者ゲンナジー・ゴロフキンに、やや不利と言われながらも人気では勝る挑戦者サウル・アルバレスが挑むという構図だった。結果は三者三様のドロー。さっそく再戦が今年5月に予定されていた。ところがその後、アルバレスからドーピングの陽性反応が出て、この決着戦が流れてしまった。

 村田選手は、自分は絶対にバレないドーピングを持ちかけられても絶対断るとしたうえで、こう述べている。

「ただ、その一方で、ドーピングに手を出してしまう選手の精神的な弱さを頭ごなしに否定していいのかという葛藤もあります。公平、クリーンであることは大切です。しかし、誰もがFのように振る舞えるわけではない」

 フランクルも〈生死に関わる状態において、その友を優先させた人間に、誰が石を投げ得るであろうか〉〈もし自分が同じような状態に置かれたならばそうしなかっただろうか、と率直に自らを問う前に、何人も石を取り上げてはならない〉と書いている。

 誤解のないように解説しておくが、ここに出てくる給仕係というのはいずれもナチスの人間などではなく、フランクルらと同じく強制収容されているユダヤ人の被収容者たちだ。自らも強制収容所に囚われ、家族や友人と引き離され(あるいは殺され)、自らの命の行方もわからない、そんな極限状況のなかで、栄養失調で死にそうな友人にたかだかスープの具をいくらか多く入れたとして、それを誰も責めることなどしないだろう。しかし、その極限状況のなかにあってなお、人間としての倫理を失わず、公平であろうとした給仕係。これをフランクルは長く苛烈な収容所生活のなかで「ただ2回だけ本当に嬉しい瞬間」のひとつとして綴っている。

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