ついでに言えば、日本のネトウヨは歴史修正主義とヘイト思想を両輪としているが、アーヴィングもネオナチとの親和性、人種差別思想、ミソジニー、あるいは反ポリティカル・コレクトネスなどの傾向を指摘されている。裁判ではそうした特徴がスピーチでの発言など客観的事実によって追及されていくのだが、平然と差別を扇動しておきながら“私は差別主義者ではない。見解を述べているだけだ”などと言い訳する様は、既視感を覚えずにはいられない。念のため引用しておこうか。
〈私はこれまで人種差別発言などしたことはないし、ヘイトスピーチもしたことはありません〉(百田尚樹「私を「差別扇動者」とレッテル貼りした人たちへ」/ウェブサイト「iRONNA」より)
このように、“歴史修正主義者&極右あるある”を噛みしめることができる映画『否定と肯定』だが、もうひとつ、「表現の自由」と「両論併記」をめぐる問題についても非常に示唆的なものがある。
本サイトでは折に触れて言及してきたが、2000年代以降の日本では、名誉毀損裁判の賠償が高額化し、政治家など権力者が批判を封じるためにメディア等を相手取って提訴する事案が増えている。本サイトはこうしたスラップめいた裁判に対して極めて否定的だ。
リップシュタットとアーヴィングの英国裁判でも「表現の自由」をめぐる司法判断は大きな関心ごとのひとつとなった(ただし、リップシュタットは提訴された被告である)。彼女は、原作の回顧録のなかでこのように書いている。
〈わたしはホロコースト否定者を告訴したいという人々から相談を受けたことが何度もある。そのたびに、思いとどまるよう諭してきた。アメリカには言論の自由を保障する憲法修正一条があって、訴訟を起こしても負けることが目に見えているからだ。ホロコーストの否定を違法とすることが法的に可能な国々の場合でさえ、わたしは訴訟を起こすことに反対してきた。違法とされれば、否定説は“禁断の果実”となり、魅力が薄れるどころか逆に増す結果になるからだ。それだけではない。法廷は歴史について問いかけを行うにふさわしい場所ではない、と私は信じてきた。否定者を黙らせたいなら、法律という鈍器で殴りつけるのではなく、理性を駆使して追いつめていくべきだ。〉
同じく、映画の脚本を手がけた前述のヘアは「表現の自由」についてこう述べている。
〈インターネットのこの時代、誰もが自分の意見を述べる権利を持っていると主張するのは、一見したところ、民主的なことのように思われる。確かにそうだ。しかしながら、すべての意見に同等の価値があると主張するのは致命的な過ちだ。事実に裏打ちされた意見もあれば、そうでない意見もある。そして、事実の裏打ちがない意見ははるかに価値が低いと言っていい。〉〈言論の自由には、故意に偽りを述べる自由が含まれているかもしれないが、同時に、その偽りを暴く自由も含まれている。〉(原作『否定と肯定』のまえがきより)