だが、「保毛尾田保毛男」ほどではないにしても、「オネエ」という呼称をはじめ、性別適合手術を受けたタレントや女性を自認するタレントに向かって「おっさん」呼ばわりしたり、男性タレントに過剰に秋波を送らせるような演出、あるいは自身が「おっさん」「オカマ」と自虐したりとLGBTに対する差別的な演出やネタはいまだ跋扈している。
いや、LGBTだけではない。セクシュアリティや容姿をいじるセクハラ的なネタや、いじめを彷彿とさせる先輩芸人の後輩芸人に対するパワハラ的なネタも、日本のお笑い、バラエティでは日常茶飯事だ。
女芸人のブスいじりも、その典型のひとつだろう。
おそらくこのときの尼神インターの誠子は、ネットで盛んに言われている悪口を本人にぶつけてマウントをとり、そしてアンゴラ村長から「ヒドーい」とかわいこぶるとか、「そっちのほうこそかわいくない」と言い返してくるなど、いずれにしてもブス・かわいい論争を繰り広げるような展開を期待していただろう。
しかし、アンゴラ村長はそのブス・かわいい論争の土俵には乗らず、そもそも容姿を笑いのネタにすることは古いと、その土俵そのものをひっくり返したのだ。
これは女芸人としては、ある意味“ありえない”リアクションだった。尼神インターに限らず多くの女芸人は、実際の美醜やモテ度とは関係なく、“ブス”“デブ”“非モテ”を自らネタにし自虐することが多い。そういうネタをやるというだけでなく、ひな壇や情報番組のコメンテーターやレポーターとしても、“ブス”“非モテ”としてふるまう。そのことによって、好感度をあげ、社会的評価を高めるというのが、女芸人の一種の処世術、コミュニケーションスキルのひとつの成功パターンとなっている。
女芸人だけではない。アイドルであるHKT48の指原莉乃も2014年に出版された新書『逆転力〜ピンチを待て〜』(講談社)のなかで、こう綴っていた。
〈おとなしい美人には意味がないって言いましたけど、親しみやすさのないブスって最悪だと思う〉
〈私の周りのみんなに「ブスって言わないでください!」と言ったとしたら、「ううん。別にいいけど、他に言うことないよ」と腫れ物扱いされかねないじゃないですか。でも「ブスでOKです!」と言っておけば、イジッてもらえるかもしれない。(中略)そうやって世の中に出てきたのが、指原という女です〉
彼女たちは「ブスはブスらしく振る舞え」と言う。アンゴラ村長が「かわいい」「かわいくない」と物議を醸してしまうのも、おそらくこうした思想の延長線上にある。スーパー3助という彼氏の存在や、先輩男芸人たちがチヤホヤしているように見えるということ、アンゴラ村長のルックスが本当にかわいいかどうかということ以上に、おそらくアンゴラ村長が“圧倒的なルックスではないにもかかわらずブスとして振る舞わない”ことにあるのだろう。