教養がなさすぎる。そもそも「日本文化」というもの自体、非常に曖昧で、恣意的に決められる話だ。たとえば政治家がよく言う「日本の伝統」というものは明治時代に定義されたものがほとんどで、たかが百数十年の話にすぎない。また、近代以前の「文化」を考えてみても、たとえば「ひらがな」ですら大陸由来の漢字がなければ誕生しえなかった。
このように、「日本文化」と言われるものは時代によって流動的で、いうまでもなく地域や海外諸国との交流により刻々と変化していくものである。単に“パンを和菓子に変えたからOK”とする文科省の判断はあまりにもお粗末だ。というか、常識的に考えてパンやアスレチック遊具が「郷土愛・愛国心」と矛盾するわけがないのだが、安倍政権はこの国からそれらを一掃すれば “純粋な日本”に近づくとでも思っているのか。
いや、笑える話ではない。逆に言えばこの問題は、「なんとなく外国っぽいもの」を排除して、「なんとなく日本っぽいもの」を優遇すれば、「それっぽいナショナリズム」が子どもたちに生まれるだろうという、極めて頭の悪い安倍政権のやり方を象徴しているからだ。
実は、こうしたお手軽な“自国文化中心主義”は、ある意味、ゴリゴリの右翼思想より何倍もタチが悪い。(外国的な)パンよりも(日本的な)和菓子が「なんとなく好ましい」という感覚は、そのまま外国(人)よりも日本(人)が「なんとなく偉い」という優越感に転化し、容易に差別主義や排外主義へと結びついてしまうからだ。
しかも、これはたまたまの話ではない。「道徳の教科化」は安倍首相の掲げる「教育再生」の目玉政策のひとつ。もともと、道徳は教科外活動であって評点はつけられていなかったが、第二次政権発足後の2014年、「江戸しぐさ」なるカルト偽史を好意的に取り上げたことでも知られる『私たちの道徳』という文科省制作の副読本の配布を開始、15年の学習指導要領改訂で「特別の科目」として道徳の正式教科化を決定した。
同時に、国が検定基準を定める教科書の使用も義務化し、ついに18年度から小学校で、19年度から中学校での実施が始まるわけだが、これに先駆け文科省は14年、教科書の検定基準を見直し、愛国心条項などを盛り込んだ改正教育基本法の目標等に照らして「重大な欠陥がある場合」を検定不合格の要件としている。したがって、検定教科書はこれまでの事実上の“国定教科書”である『私たちの道徳』をモデルとせざるを得ず、当然、文科省のいう「重大な欠陥」は政府のさじ加減ひとつであって、教科書出版社への圧力となる。こうした経緯が今回の“パン屋・和菓子屋問題”の背景にあるのを忘れてはならない。
また、もうひとつ見逃せないのが、この「道徳の教科化」で、子どもたちに評価がつけられるようになるという事実だ。愛国心、家族への気持ちなど、個人の心にまで優劣がつけるというのは、ようするに国が個人にひとつの価値観を強要、洗脳していく行為であり、思想・信条の自由を保障する日本国憲法に反している。
その意味では、いま森友学園問題で教育勅語の暗唱など異常な教育がクローズアップされているが、すでに安倍政権はそれとまったく同質のアナクロな洗脳教育を子どもたちに施そうとしているのである。「天壌無窮」の皇室をいただく「万邦無比の神国」という「国体」思想を人々に植え付け、侵略戦争を正当化した戦前教育の再現、と言い換えてもいいだろう。
検定教科書の「パン屋」が「和菓子」に変更させられたという話は、実にバカらしくとるにたらないように見えがちだが、実はその“和菓子ナショナリズム”は安倍政権が邁進する“戦争のできる国づくり”の顕現であり、日本全体の“森友学園化”を意味している。そのことをゆめゆめ忘れてはならない。
(宮島みつや)
最終更新:2017.11.22 01:15