明治の終わりから大正にかけては、共産主義や社会主義運動を取り締まる特高警察が生まれ、主要府県に設置された。論文では〈外事警察が機能面で充実を図られたのは、大正六年のロシア革命を契機とする〉と記されているが、特高警察はのちに共産主義者だけではなく、翼賛体制を維持するために国民の反戦運動、いや、それだけでなく平和を訴える個人の手紙などへの取り締まりをも強化した。
しかし、北村論文では、特高警察が“思想警察”であり、言論や集会等を弾圧し、あるいは逮捕者を拷問死させていたという事実は、論文を最後まで読んでもまったく触れられない。
そして、論文の「大東亜戦争と対諜報」という小見出しにおいて、北村氏はこのように記述している。
〈昭和一二年七月に支那事変が勃発するや、我が国は、次第に本格的に戦争に介入せざるを得なくなり、近代船に対応する国内体制整備に迫られた。戦時における外事警察は、適正外国人の抑留と保護警戒、俘虜及び外国人労働者の警戒取締りは勿論のこと、敵性国による諜報、謀略、宣伝の諸活動に対抗する防諜機関として国策遂行上極めて重要な任務を担うことになった。〉
〈更に、大東亜戦争が勃発した一六年一二月には、内務省令第三一号により、外国人が居住地道府県外に旅行しようとするときには居住地地方長官の許可を要すること、その他について更に厳しい制限が設けられた。さらに、外事警察は、他省庁や軍部とともに防諜委員会を組織し、各種施策の決定、国防安保法、軍用資源秘密保護法等の防諜法規の策定、国民の防諜意識の涵養等の事務を遂行し、その影響力は飛躍的に拡大した。〉
こうした記述をもって赤旗が〈国民を血の弾圧で戦争に動員した暗黒体制を礼賛しています〉と評するのはもっともだが、これには少しばかり説明が必要だろう。『蟹工船』で知られる小林多喜二が特高警察の拷問によって殺されたことは有名だが、北村氏が述べる各種法規は、そうした特高警察の権限を強大にする後ろ盾となった。そして、北村氏が〈国民の防諜意識の涵養〉なる言葉で表現するものの実態は、庶民の私信の検閲を始め、自宅を訪問して調査するなど、徹底した思想弾圧体制であり、そこでは“でっち上げ”までもが日常的に行われていた。
敗戦末期、特高警察の一員として働いていた著者による『「特高」経験者として伝えたいこと』(井形正寿/新日本出版)という本がある。著者は当時の特高警察の「任務」をこのように記している。
〈当時の思想弾圧はすさまじいものだった。戸口調査といって、警察官が一軒一軒の家をまわって住民の思想動向を調べ上げ、社会主義者や朝鮮人についてはブラックリストを作成した。怪しい動きがあれば容赦なく逮捕して取り調べた。〉
あるいは、疎開先に家財道具を運ぶことができず、街頭で私物を販売していただけの庶民を逮捕し、「反戦思想」をもっているとして犯罪者に仕立て上げるようなこともあったという。
〈ある日、私の一年先輩になる特高係がその女性を署に連れてきて取り調べを始めた。「おばあちゃん、戦争さえなけりゃ、こんな疎開せないかんことないのにね」。女性はうなずいた。疎開しなければならない苦労から、自然にうなずいたのだろう。ところがそれを彼は、「反戦的な言動」として調書に記した。(略)つまり、戦争を批判したわけではないのに恣意的な尋問によって「自白」をつくりだしていたのである。〉