そして、サノケン問題が勃発した後、この亀倉デザインは前述のようにさらに評価が高まり、今や、亀倉エンブレムを評価することが、デザインやアートをわかっていることの証明であるかのような空気になっている。
しかし、亀倉エンブレムを絶賛し、その再使用を主張する人たちは、このデザインがどういうふうにつくられたかを本当に知っているのだろうか。
〈亀倉さんは締め切りを忘れていて、直前に慌てて案を提出していたのをよく覚えています。ところがふたを開けてみたら、採用されたのは亀倉さんの案だった〉
こんな証言をするのは、2020年東京五輪エンブレムの審査委員長で、1964年の東京五輪では亀倉とともにエンブレムコンペに参加した永井一正。永井は亀倉とはともに日本デザインセンターを立ちあげた盟友で、ずっとそばで亀倉の仕事ぶりを見てきた人物だが、その永井が「宣伝会議」(宣伝会議)2013年11月号で、当時の亀倉の様子をこう振り返っているのだ。
事実、そのことは、亀倉本人も認めており、1983年に出版された彼の著書『曲線と直線の宇宙』(講談社)には、こんな文章が登場する。
〈ぼくは東京オリンピックのマークの五輪をくっ付けたポスターを作りましたが、ヨーロッパ人はどのくらいの時間をかけて、どういう分割で作ったかと必ず聞くんですよ。ぼくは5、6分で作ったというと、信じられないと言うけれども、事実なんです。〉
ようするに、あのエンブレムは締め切りを忘れていた亀倉が、慌てて5、6分でサクサクッとつくったものだったのだ。もちろん、時間をかけた仕事が良い仕事とは限らないが、いくらなんでも5、6分というのは……。
では、コンセプトはどうだったのだろうか。亀倉のつくった東京五輪のエンブレムはしばしば日の丸デザインといわれるが、亀倉自身は日の丸ではないと主張している。
〈私は日の丸の旗そのものを、このシンボルにとり込むという考えは最初からしなかった。それは日の丸の旗は、白地と赤い丸とのバランスはあまりいいとは思わなかったからである。白い面積に対して赤い丸が少し小さいという感じがした〉
〈そのことで、デザインとしては弱く古い感じがしたからである。そして、どこか淋しい形を持っているのはそれが原因していると思ったからである〉
〈赤い丸が画面いっぱいにどかーんと出せば、それ自身新しい感覚の造形となりうるし、その丸い形にくっつけて金色の五輪のマークを配置すると、丸と丸とが接触して回転造形を生むと計算したからである〉
〈計算はうまく図にあたって、単純な何の変哲もない形態が相乗効果を生んで、力強い現代的な造形に変貌してくれた〉(『曲線と直線の宇宙』より)