Aは社会に出てから仕事を教わり、アパートの保証人になってくれた信頼すべき先輩ができた。ある日、妻子があるその先輩から夕食に誘われた。しかしAは先輩宅で妻と小学校にあがったばかりの娘を見た時、足の竦むような恐怖感に襲われたという。
「無邪気に、無防備に、僕に微笑みかけるその子の眼差しが、その優しい眼差しが、かつて自分が手にかけた幼い二人の被害者の眼差しに重なって見えた」「耐えきれなかった。その時の感覚は、もう理屈じゃなかった。僕はあろうことか食事の途中で体調の不良を訴えて席を立ち、家まで送るという先輩の気遣いも撥ね除け、逃げるように彼の家をあとにした」
そしてAはバスの中で泣いた。自分は取り返しのつかない過ちを犯したのだと。そしてこう思った。
「どんなに頑張っても、必死に努力しても、一度一線を越えてしまった者は、もう決して、二度と、絶対に、他の人たちと同じ地平に立つことはできないのだと思い知る」
たしかに、Aが向き合っているのは被害者や被害者の遺族ではなく、自分自身だ。そういう意味では、今でも自分のことしか考えていないという指摘は正しいのかもしれない。しかし、だからこそ、その苦しみはリアリティをもって伝わってくる。この本を読んで、Aの犯罪を模倣したいと思う者は皆無だろう。逆に、犯罪を犯すことがいかにすべてを壊してしまうか、その恐怖におののくはずだ。そういう意味では、『絶歌』は犯罪の抑止力になっても、犯罪を助長することはありえない。
もっとも、こうした出版の価値をいくら語っても、多くの人は、「それでも遺族が不快に思っているなら、出版すべきではない」というだろう。だが、繰り返すが、出版の自由とその社会的な価値は、遺族感情を超えて守られるべきものだ。
もし、遺族感情を最優先するのだとしたら、ひとりの遺族がとにかく事件に触れてほしくないと言っただけで、加害者の手記だけでなく、事件に関する分析、報道がすべてできなくなってしまう。
実際、遺族の思いもすべて同じというわけではない。淳君の父親は「少年事件を一般的に考察するうえで益するところがあるとは考えがたい」と即時出版回収を求めているが、もう一人の被害者・山下彩花ちゃん(当時10歳)の母親は、出版の経緯には疑問を示したものの、今年の命日にAから届いた手紙を読んで「事件そのものに初めて触れており、事件に向き合っていることが分かる言葉がいくつもあった」とした上でこう語っている。
「彼も普通の人間。後悔もざんげもする。もし彼の生の言葉が社会に伝われば、そういった犯罪の抑止力になれるのでは」