彼は「人は結局、見た目を含めて選ばれるのだ。それならば、『見た目』を良くする努力がもっと認められてもよさそうだ」と完全に開き直る。そのための代表的な手法がメイクや美容整形だ。科学による身体加工という発想の浸透する現代社会で「美容整形に対する風当たりが消えるのも時間の問題」と続ける。
「整形が一般的になってしまった場合、『ブス』や『ブサイク』は怠惰の象徴として、今以上に差別を受けるようになるかもしれない。よく『ブスだからモテない』という悩みがあるが、実は自己責任でどうしようもない何かのせいにできるというのは、とても幸せなことである」
オイオイ、ちょっと待て。ここまで来ると釈明の域を越え、容姿に悩む人々へのセカンドレイプと言っていいレベルの暴言ではないか。
古市くんの議論にすっぽり抜け落ちているもの。それは、同じく社会学の一分野として大きな存在感を持つフェミニズムの、今日に至るまでの格闘の軌跡だ。
70年代にウーマン・リブという運動が生まれ、80年代以降「フェミニズム」と呼ばれる領域に発展するまで、フェミニストたちは「ブスのひがみ」「もてない人間のやること」という嘲笑に晒され続けてきた。そのなかで涙ぐましく積み重ねられてきた研究成果をもとに、古市論考を批判していこう。
まずもっておかしいのは「法律的にも人を『見た目』で差別することは認められている」という一節だ。たしかに今の日本社会には女子アナウンサーやキャビンアテンダントなど、容姿が採用に直結すると考えられる職業が存在する。ゆえに就職試験という場で「容姿選別」の原理が働くことは否定できない。
しかし問題は、そうした構造が「誰によって作られたものか」だ。吉澤夏子・立教大学教授は、美という評価領域は「男性の・男性による・男性のためのもの」であり、「男社会の構造そのものに異議を申し立てる女性たちは、まさにその基準に照らして、必然的に『ブス』という最下層に位置づけられる」と指摘する(「美という評価基準」/「クィア・ジャパン」vol.3/勁草書房)。しかしその告発の多くは、結局のところかき消されてしまう。それは「美醜」の判断が、結局は「心の中の問題」へと回収されてしまうためだ。
「就職試験や昇進人事において、もし『実力はあるがブスだから採用しなかった』(昇進させなかった)という事実があれば、それが差別であることは明らかだ。しかしそのような事例が裁判に持ち込まれたという話は聞かない。それは、この事実を裏付ける明白な証拠をあげることが、結局は不可能だからだ。(略)美醜をめぐる基準や判断、人を好きになる理由は、きわめて個人的なものであり、そして実は、そのことこそが『問題』なのだ」(「美という評価基準」より)
つまり見るべきは、現実のなかに厳然と埋め込まれていても声をあげることをためらわせる容姿差別の「構造」そのものではないか。差別を受ける個人の側を問題にするのは、方向性を180度見誤っているとしか思えない。