パワースポットに行き、近くのカフェでおすすめスイーツを食べて、美肌効果のある温泉に入るという「パワースポット旅」の典型は、もはや観光のスタンダードになりつつある。それらに対して宗教的見地を投じて、いかがなものかとガミガミ噛みつくのは野暮だとは思う。しかし、本書で紹介されている、ある旅行社が提供するパワースポット巡りの2泊3日ツアーが「秋田の涙の聖母像、なまはげの伝承館、大湯環状列石と黒又山、キリストの墓、三内丸山遺跡、岩木山神社」とあらゆるパワースポットからパワーを強奪するかのようなスケジューリングだと知れば、さすがに苦言を呈したくはなる。
著者は「宗教の中に観光が入り込み、観光の中に宗教が持ち込まれることで、時に両者の区別がつかなくなり、宗教とも観光とも言えないような融合現象が生じている」と分析する。観光プランを編むための「使える」場所に仕立てる魂胆が、今はとにかくパワースポット作りに集中しているということなのだろう。
とはいえ、必ずしも喜んでいる人たちばかりではない。神社本庁の機関誌的性格を持つ「神社新報」(10年11月8日号)では、これらのパワースポット旅の面々が、時として本殿での拝礼を平然と無視することに厳しい見解が注がれている。「神域で祈りを捧げるのではなく、携帯電話に写真データををさめるだけで満足してゐるやうな事例さへあるのださうだ。まさに『パワースポット』といふ言葉に惑はされた極端な例といふことができよう」と厳しい。一方で、パワースポットブームに便乗して縁結び会を定期的に開くようになった神社もある。大特価セールのように投げ売りし始めた同業者の「パワー」に対して、怒り心頭に発しているのだろう。
観光社会学者の須藤廣は「日本全国の郊外化が進展した1980年代頃から日本の観光空間の虚構性が高まった」と指摘する。その殆どが閉館してしまった秘宝館をはじめとしたB級スポットを指しているのだろうが、これらが一通り存在感を失った後で、明確な場所や物質に行き着くだけはない、「感覚」を得るための観光が流行り出した。つまり、「聖地」が世俗化ないしは私事化しているということ。これは日本だけの現象ではない。サンティアゴ巡礼は、四国遍路と同じように「自分探し」「感動共有の場」として行なわれ、宗教観とは離れた自己目的化のために、人が押し寄せている。
このような「聖地」への巡礼が観光と融合した体験を、人類学者の門田岳久は「浅い宗教体験」だと断じている。その指摘は決して信仰心の劣化に対してではなく、巡礼と観光を好都合にブレンドした「それなりの宗教的体験」に現代人が満足げである様子に向けられている。日本人の宗教観に対して放たれがちな「クリスマスも正月も祝うなんて……」という紋切型のクレームではなく、むしろ、この手の浅さがしっかりと宗教体験として根付いてしまったことを注視している。
著者の分析は冷静だ。これらの巡礼体験は「かけがえのない出来事」として語られるものの、それは「ほとんどの巡礼者が体験する『どこにでもある出来事』である」とする。確かに、自分だけのかけがえのない出来事をみんなでシェアしたいという矛盾した願望が垣間見える。宗教体験のインスタント化により、宗教が「伝統的な寺社・教会・教団といった組織から、個々人へのつながりへと移行」していく。新たな聖地巡礼に対応しようと、寺社は姿勢をフランクにしているが、寺社が「はやり廃り」を気にしながら運営していくというのは果たして健全なのかどうか。スポットして消費される以上、流行りのスポットは常に移り変わる。先述の須藤が指摘していたような「観光空間の虚構性」が今度は寺社にまで生まれてしまう懸念もあるのではないか。
(武田砂鉄)
最終更新:2017.12.19 10:22