再登板となった75年1月号では「毎年新聞」というそのタイトルどおり、新聞のフォーマットを借りて、全4面にわたり各界の著名人の発言をイラストとともに並べた。その1面トップでは、田中角栄の首相退陣がとりあげられている。考えてみれば、田中の退陣は74年の11月末だから、12月発売の雑誌に掲載するには、そうとう切羽詰まった状況で作業を進めなければならなかったはずだ。それでもさすがに新たな自民党総裁・首相に三木武夫が選ばれるまでには間に合わず、三木の肩書が「総裁候補(本家)」となっているのをはじめ、大平正芳は「同(正統)」、福田赳夫は「同(元祖)」、中曽根康弘は「同(後釜)」などという具合に苦肉の策がとられている。
そのほか「毎年新聞」では、現実の新聞紙面にならって「告示」やら「尋ね人」やら「死亡広告」までもがパロディ仕立てで描かれている。政党広告まで入っていて、各党を支持する芸能人やスポーツ選手を含む著名人たちの似顔絵が並ぶ。日本ではいまだに芸能人が特定の政党の支持を表明することはほとんどないから、これを描くのはある意味タブーに触れるようなものだったろう。
赤瀬川らが手がけた最後の論壇地図は、77年1月号掲載の「1977年版大日本天皇制民主帝国クリーンアップ机上作戦盗視図」である。これも、その長いタイトルにふさわしい大作で、ロッキード事件を中心に、その前年の国内外の事件・流行・文化を総ざらいしている。随所に小ネタもちりばめられ、たとえばロッキード事件の究明に乗り出した三木首相と、それを批判する自民党議員たちが乗っているのは、よく見ると鯛焼きだ。これはこの年のヒット曲「およげ!たいやきくん」に掛けたものであることは間違いない。ほかにも、王貞治のとなりで、文化人類学者の山口昌男が「『王殺し』の条件とは?」とつぶやいていたりして、配置の妙を感じさせる。
筆者が論壇地図の存在を知ったのは、95年1月~4月に名古屋市美術館で開催された赤瀬川の回顧展でだった。その会期中にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生、知識人のあいだでもオウムをめぐりさまざまな論争が起こった。それを見ながら筆者は、オウム論争もかつての赤瀬川たちのようにイラストでまとめたら面白いのにと思ったものだ。その思いはこのあとも、アメリカの同時多発テロや東日本大震災など大事件が起こるたびに頭をもたげることになる。
もちろん論壇や芸能界の状況を示した相関図は、現在でも雑誌やウェブでちらほら見かける。それでも、赤瀬川たちの論壇地図のように、幅広い分野を横断し、あれだけの情報量を高いクオリティでまとめあげた例はほかにないはずだ。それを実現したのは、松田哲夫や呉智英の博覧強記、あるいは南伸坊の職人気質であり、さらにいえば、赤瀬川原平の人徳によるところも大きかったような気がする。ようするに、たとえ大変な仕事であろうと、この人とならきっと楽しくやれるに違いないと思わせる何かを赤瀬川は持っていた。そしてそれは論壇地図にかぎらず、のちの路上観察学会など、彼の組織的な仕事全般にいえるように思うのだ。
(近藤正高)
最終更新:2015.01.19 04:34