だが、何も出生前診断で中絶を選択した妊婦を責めたいわけではない。考えなくてはいけないのは、「障がいがあれば堕ろせばいい」と社会が後押しするような空気のほうだ。生むことを選んだ親に対し、「不幸になるとわかっているのに、産むのは親のエゴ」「自己責任で産んだのだから、国や社会に頼るな」という空気すら作られつつある。だいたい“劣等人種は抹殺しろ”という考えは、ナチス・ドイツ時代の優生思想にも繋がる危険なものである。そして、カネのかかる障がい児の出生を避けようとするのは、ただの政策思想でしかない。
何より、私たちの社会は、障がいがある人とそうではない人が触れあう機会が、ほとんど用意されてはいない。国際的には、障がいのある子どもとない子どもがともに学ぶ「インクルーシブ教育」が進んでいるが、日本においてはまだまだ“隔離”されている状態だ。また、メディアを見ても、アメリカでは『セサミストリート』などの子ども番組や「トイザらス」の広告にダウン症の子どもが出てくるし、人気ドラマ『glee/グリー』にも、チア部のメンバーとしてベッキー・ジャクソンというダウン症の女の子が登場している(ベッキー役を演じるローレン・ポッター自身も、ダウン症をもつ女優である)。片や、日本では、報道やドキュメンタリーを除けば、年に1回の『24時間テレビ』で視聴者の涙を誘うように“かわいそうな人”と演出されて障がいがある人たちが紹介されるだけだ。このような状況で、“障がい=負”というイメージだけを一方的に押しつけ、自分の考えにしてはいないだろうか。
前出の斎藤は、まるで未来を予見したように、このように述べている。
「「現代の社会では障害をもつ子どもはけっして幸せになれないし、親自身も不幸である」という固定概念に縛られた現状認識が根強くはびこっている状況のなかでは、けっきょくは人間が人間の生命を管理・選別していく巨大な流れに巻きこまれていく可能性は大きいのではないだろうか」
「できるだけムダを省き、より効率的で、論理整合性のある合理化体制をめざす志向に突き動かされて、その流れにさからう異端の存在や、役に立たない弱者や劣者を切り捨てながら、不気味な歯車が回転していく危険を、私たちの社会ははらんでいるようだ」
斎藤の指摘は、さらに加速度を高めて進行している。合理的でないものは排除しよう。異端は拒絶すればいい──障がい者に対してのみならず、こうした排他的な考え方が社会に蔓延っているのが、現在の日本の姿だ。
そもそも、ダウン症の子どもが一定数生まれることは生物学的には自然なこと。新型出生前診断を受け、中絶を選んだ妊婦の悲しみも、生むことを選んだ家族の困難も“個人の問題”などではなく、社会が背負うべきものではないのか。ダウン症の子どもが生まれても幸せにはなれない。そんなふうに諦めてしまう世の中をつくりあげているのは、ほかでもない、この社会の貧しい体制にある。
(田岡 尼)
最終更新:2016.08.05 06:47