「神武天皇の即位を祝う紀元節」は明治政府がつくりだしたフィクション、歴史学でも否定
前述のように「紀元節」は明治時代の1873年に制定されたが、逆に言えば、それまで「初代・神武天皇の即位日を祝う」という大衆的風習などなかった。薩長を中心とした明治新政府は、急激な幕藩体制からの脱却と自らの権威の確立のため、天皇を利用することで政治体制をまとめようとした。そのために着手したのが「神武創業」「万世一系」「万邦無比」「天壌無窮」といった、国体に結びつけられる思想の設計だった。
祝日もそのひとつだ。1873年に太陽暦を採用し、「年中祭日祝日」についての布告を出すのだが、なんと、新政府はそれまでの日本の"伝統的な祝日"だった五節句祝(1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽)を廃止してしまった。その代わりに新たな「国家祝祭日」として設置したのが、神武即位日(後の紀元節)、神武天皇祭(神武天皇の崩御日)といった天皇信仰に基づく祭日だった。
このとき、神武天皇の即位から年号を数える「皇紀」も同時に定められている。明治政府は神武天皇即位の年=皇紀元年を紀元前660年の太陽暦2月11日と決め、「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)とした大日本帝国憲法の公布をこの日に合わせることで、支配の正当化をはかったのだ。
しかし、言うまでもなく神武天皇は架空の存在である。安倍政権下では、たとえば稲田朋美・元防衛相や三原じゅん子参院議員らが「神武天皇は実在の人物」という趣旨のトンデモ発言をしているが、『古事記』や『日本書紀』に登場する神武天皇は、ときの政治権力である朝廷がその支配の正当性を説くために編み出した“フィクション”というのが歴史学の通説だ(実際、「日本書紀」に従えば神武天皇の没年齢は127歳ということになってしまう)。さらに言えば、神武天皇の陵墓は天武、天智、持統天皇などの陵墓と比べて軽視されており、中世まで始祖として崇め奉られていた形成すらほぼない。
ところが、この「建国神話」のフィクションは、大日本帝国憲法の発布から敗戦まで「歴史的事実」として教えられていた。最近、日本の近代史研究で知られる古川隆久・日本大学教授が『建国神話の社会史 虚偽と史実の境界』(中央公論新社)という本を出版し、その受容のされ方や当時の社会状況をわかりやすく解説している。
〈建国神話は、江戸時代に日本の未来の姿を探し求めるなかで価値を認められ、幕末の対外的な危機克服というエリート層の危機意識のなかで、国体論という、庶民を国防に動員する思想の根拠として注目されました。明治維新後には、欧化への反動や自由民権運動という反体制運動を防ぐために、国体論が憲法や教育方針に取り入られました。それらの根拠となった関係で、建国神話は「事実」という建前となったのです。
史実となった以上、建国神話は国体論の最大の根拠として義務教育の歴史教育でも事実として教えられることになりました。そして、第一次世界大戦後になると、社会主義などの新たな反体制運動を防ぐために、小学校の日本史の授業における、史実として建国神話教育はさらに強化されることになったのです。〉(『建国神話の社会史』)
歴史学的視点から建国神話に異議を唱える者は排斥の憂き目にあった。たとえば『日本書紀』などについて批判的研究を行った津田左右吉に対し、東京地検が尋問を行い、『神代史の研究』など4冊を「皇室ノ尊厳ヲ冒涜シ、政体ヲ変壊シ又ハ国憲ヲ紊乱セムトスル文書」として発禁押収。後日、津田と版元が出版法違反で起訴されるという事件も起きている。
興味深いのは、「建国神話」を「史実」として叩き込まれた子どもたちも、実際には、普通に疑義を持っていたと伺えることだ。『建国神話の社会史』では太平洋戦争開戦後、国民学校での歴史教育で「国史の時間に掛図の“天孫降臨”をみて『先生そんなのうそだっぺ』と問うと、教師が『貴様は足利尊氏か』などと怒鳴って木刀で頭部を強打した」というような回想録が紹介されている。