希望していた“皇室外交”を禁じられ、不妊治療を強要された雅子皇后
いずれにしても、雅子皇后が徳仁天皇と結婚したのは、政府周辺の圧力の結果だったと考えて間違いないだろう。しかも、結婚後、雅子皇后への圧力はさらに強くなった。今度の圧力はもちろん「お世継ぎを産め」というものだった。
前述したように結婚を雅子皇后に応諾させる際、政府サイドは「皇室外交を積極的にやっていただく」と約束したとされるが、結婚後の宮内庁の対応はまったく逆だった。当時の宮内庁長官の鎌倉節氏と東宮大夫だった古川清氏が雅子皇后に“子づくり”に専念させるため、外遊を禁じ、東宮の中に閉じ込めたのだ。
実際、1994年11月と1995年1月の中東7カ国歴訪を最後に、愛子内親王が生まれた翌年の2002年まで雅子皇后は外遊に行っていない(1999年の海外訪問は王族の冠婚葬祭であり、皇室間の儀礼的訪問にすぎなかった)。
「警察官僚出身の鎌倉氏は世継ぎの出産を国体の護持と言い放つゴリゴリの右派で、東宮大夫だった古川氏は“東宮のガン”とまで言われた守旧派のドン。鎌倉・古川コンビを毛嫌いしていた雅子さまは、結婚後、籠の鳥生活のプレッシャーからストレス障害に陥り、持病のアトピー性皮膚炎まで悪化してしまった。なかでも結婚から3年後の1996年は最悪で、皇太子との関係もギクシャクし、雅子さまは東大の教授を東宮御所に呼んでラテン語や政治学を習ったり、愛犬を買い始めたりと、ストレス発散に必死だった。雅子さまが心を閉ざして貝になり、複数の外国メディアが『悲しみの皇太子妃』『姿を消したプリンセス』などと報じたのもちょうどこのころです」(前出・皇室ジャーナリスト)
さらに、宮内庁は、雅子妃の外遊を制限するだけではなく、不妊治療を強要していたのだ。「週刊文春」「文藝春秋」などで雅子皇后の立場に立った詳細な内幕ルポを発表してきたジャーナリスト・友納尚子氏の著書『ザ・プリンセス 雅子妃物語』(文藝春秋)によると、鎌倉宮内庁長官が直接、雅子妃に圧力をかけたという。通常、長官といえども皇太子夫妻から「お召し」がなければ勝手に会いに来ることなどできないのだが、1997年2月、鎌倉長官はその禁を破り、強引に乗り込んできた。そして部屋に入るなり、世継ぎの話を切り出したという。同書は元東宮職のこんなコメントを紹介している。
「前置きもなく、いきなりお身体のことを話し始めたといいます。雅子妃殿下は羞恥心と驚きで複雑なお気持ちになったそうです。ひとりの女性が夫婦間のことなどを他人に軽々しく言えるはずがありません。雅子妃はしばらく黙ったままだったそうですが、あまりに理解がないためプライバシーについて言われたところ、結局、聞き入れてもらえないまま話は平行線に終わったと言われていました」
しかし、宮内庁は東大病院で不妊治療の権威といわれていた堤治教授を宮内庁病院に招聘、不妊治療を強要して、1998年から検査や治療を始めた。
ただし、雅子皇后は巷間言われていたような「体外受精」などの治療を受けたわけではない。検査は行われたが、治療については、堤教授には体外受精の技術はなく、あったとしても、排卵誘発剤、人工受精などのレベルだったと言われている。しかも、検査の結果、雅子皇后に問題はなかった。この検査についても前掲書『ザ・プリンセス』が宮内庁関係者のこんな証言を掲載している。
「これまでお子さまが生まれないのは雅子妃のお身体のせいだといわれてきたことから、この検査結果が出たことで『やっと周囲にわかってもらえる』と安心したお気持ちの方が強かったといわれています」