『なつぞら』はレッドパージや検閲も描きながら掘り下げず問題を矮小化
いや、それどころか『なつぞら』では、坂場は長編アニメ映画の興行不振の責任をとって「東洋映画」を退職してしまうのだが、実際には高畑は降格処分で残り、その後、大塚氏が移っていたAプロダクションに宮崎や小田部氏とともに移籍している。高畑らの退職理由について大塚氏は、「当時、東映では僕を含めて新鮮な企画が通らなくなっていましたから」と述べている(「おおすみ正秋の仕事場」インタビューより)。
会社との対立が退職理由だったのに、それが興行不振の責任に置き換わるとは──。じつは『なつぞら』では、作中に登場するアニメーションの制作に東映アニメーション(1998年に東映動画から商号変更)が入っている。NHKは東映動画に気をつかって、組合による労働争議や優秀なアニメーターが続々と抜けていった歴史を描くことを避けているのかもしれない。
しかし、はたして問題はそれだけなのだろうか。たとえば、『なつぞら』では、労働組合問題だけではなく、当時あった問題を取り上げながらも矮小化するような場面が散見されていた。
たとえば、なつは「東洋動画」の採用試験を一度落ちているのだが、その理由はなつの兄が新劇の劇団「赤い星座」にかかわっていることを、社長が「あそこは戦前からプロレタリア演劇の流れを汲む劇団じゃないか」と問題視したことだった。つまり、なつはレッドパージに遭ったわけだが、作中では「誤解されてしまった」として処理され、レッドパージそのものの理不尽さや違法性にはまったくふれられなかった。
また、のちになつと結婚することになる坂場が演出した『ヘンゼルとグレーテル』をめぐって、上司たちが「これって社会風刺じゃないか」「これはアメリカと日本の関係を表しているんじゃないだろうね?」と追及する場面も出てきたのだが、こうした“検閲”についても、その不当性を問題にするのではなく、“アニメは子どもが観るものという価値観”の問題にすり換えられてしまっていた。
反体制への弾圧を取り上げながら掘り下げることもなく、それに対する抵抗も描かない……。ようするに、表現の自由や労働者の権利といった重要な部分について、『なつぞら』はあまりに無頓着すぎるのだ。
前述した斎藤美奈子氏のコラムでは、『なつぞら』の労働組合の描き方と、佐野サービスエリアで起こった従業員のストライキによる営業停止を「利用客に戸惑いや落胆が広がる」などとまるで迷惑行為であるかのように伝えたメディアの姿勢と合わせて、〈こうして曖昧にされる労働者の権利。ニュースといいドラマといい、何を気にしているのか知りたいよ〉とまとめていた。
『なつぞら』の描写は、NHKや脚本家の無意識によるものなのか、はたまた“敢えて”外しているのか、その真意はわからない。しかし、「ボーヴォワールのようになりたいと思っていました」と語る奥山氏を主人公のモデルにしながら、この描き方はあまりにも残念としか言いようがないだろう。
(編集部)
最終更新:2019.08.22 04:44