『やすらぎの郷』にも反映された、倉本聰の戦争体験
「本の旅人」(KADOKAWA)11年5月号のなかで倉本氏は、山形に疎開していた時期の担任だった柴田先生について思い出を語っている。倉本氏が生まれて初めて関わった演劇の指導をしていた柴田先生は、倉本氏の人生に大きな影響を与えた人物だが、彼は戦争中にも関わらず戦争に批判的な意見を表明する人だった。
柴田先生は、生徒たちに軍歌を歌わせるのではなく自らが作詞作曲した曲を歌わせたりと、当時バレたらクビになりかねないような指導を行う先生で、戦争についても「おまえたち、外では言うなよ」と前置きしながら、「大きな声じゃいえないけど、戦争っていうのは喧嘩のことだからな」と語ったり、生徒の前で「大東亜喧嘩っていうんだ」と皮肉を述べたりする気骨ある態度をとっていたという。
そして、柴田先生による「戦争っていうのは喧嘩のことだ」という言葉を、より強烈に印象づける出来事が戦後すぐにあった。倉本氏は前掲「サンデー毎日」のなかで、戦後すぐの闇市(そこは小学校に向かう通学路でもあった)で見かけた衝撃的な出来事について語っている。
「戦後すぐ、小学6年のときに、予科練帰りの男がヤクザたちになぶり殺しにされるのを目の前で見たんです。死体の目と耳、鼻と口から黒い血が地べたへ流れ、それは恐怖で立ちすくんだぼくの足先まで伸びてきた。疎開していたので戦時中に直接人の死を見たことがなかったぼくにとって、あの闇市での闘争と死はまさしくぼくの戦争体験だったんですよ。ケンカってこういうものかと思った。ケンカ、イコール戦争だと思った。だからぼくはケンカは怖くてできない」
このように戦争を知っている世代だからこそ、倉本氏は平和や憲法9条について強い思いをもっている。