中原昌也「権力があれば何を言ってもいいだろうという、あの驕りが嫌ですね」
「SPA!」17年9月19日・26日号では、その強権的な姿勢についても、このように喝破する。
「ナチスもいいことをしたとか、どうのこうの言うヤツって、もはや嫌がらせで言ってるだけでしょ。何も考えてねえだろって」
「本当に堪え難いです。道徳的とかってことを超えて、権力があれば何を言ってもいいだろうという、あの驕りが嫌ですね」
1から10までその通りなのだが、あの中原昌也の言っていることがここまで真っ当に響くというのも、まさに「時代」といった感がある。
中原昌也といえば、音楽では暴力温泉芸者やHair Stylisticsといった名義でノイズミュージックを突き詰め、小説でもバイオレンスとブラックユーモアをふんだんに混ぜた世界観を構築。世俗的な作風とは距離をとり、アングラでハードコアな、独自の芸術世界をつくりあげている作家である。
それでも彼は、自分の芸術や発言が現実世界から遊離することを良しとしない。それは、昨今ではだんだんと失われつつある感覚である。
昨年6月、SEALDsの奥田愛基氏がFUJI ROCK FESTIVAL’16に出演したことをきっかけに巻き起こった「音楽に政治をもち込むな」の炎上騒動が典型だが、ここ最近では芸術が社会的なトピックに踏み込むこと、特に、権力者を批判するような表現をすることに対するアレルギー反応がある。
それは、芸術の受け手側だけではない。つくり手側にも共通して当てはまる傾向である。中原は「SPA!」10月3日号にて、ある文学賞で出会った不愉快極まりない逸話を語っている。
付き合いで出席したその文学賞のパーティーでスピーチを頼まれた彼は、受賞者に「SFは管理社会に対する批判として出てきたものだけど、現実世界はそれを都合よく管理社会に利用したところがあって、そういうことについてどう思いますか?」という質問を投げかけた。それに対する反応は、「YES」でも「NO」でもなく、「そんなことより自分の生活が楽しいほうがいいかなと思います」という、なんとも次元の低いものだった。これに対し、彼は怒りをぶちまける。
「文学が反体制的である必要はないけど、何かを考えるヒントにならないと意味がないだろうと。別にエンタメが悪いとは申しませんが、自己肯定的な表現ばかりになるのは本当に害悪だと思いましたね」