「悲鳴なんか上げない」という歌詞にある男性目線と想像力欠如
このような反応が出ることを予測しない無神経さも問題だが、さらに議論の俎上に載せられるべきは〈私は悲鳴なんか上げない〉という部分だろう。痴漢や傷害に対して助けを求めたり、抵抗するための「悲鳴」を上げないことこそが、襲撃者に対して勝つことであり、積極的にとるべき態度として書かれているからだ。
前述した被害女性に賛同し、秋元康事務所に対し今回の件などに関する回答を求める署名運動を「change.org」で立ち上げた人物もこのように綴っている。
〈「私は悲鳴なんか上げない」という歌詞がもたらす規範的な印象について。音楽に限らずおよそ言葉を使う作品は多様な解釈を前提に作られているはずだが、「なんか」という語に含まれているのは、諦めや絶望だけだろうか、という問いも立てられて然るべきだ。私はこの歌詞から、反撃への意志喪失のほかに、否定的な価値判断としての宣言を読み取ることもまた一定以上の確実性を持つはずと主張したい。具体的には、悲鳴を上げること(それが襲撃者の存在を拒絶する強さなのか、襲撃者や周りの傍観者に弱みを見せることなのかはともかくとして)を潔しとせず、黙することを、諦めや絶望からくる消極的選択でなしに、積極的に引き受ける態度であり、抑圧の容認を是とする宣言である。こうした、社会の(性犯罪者にとって都合のいい)「秩序」を維持する判断を歌詞が押し出していないと否定するに足りる根拠はないだろう〉
おそらく秋元氏は、女性は痴漢や怖い目に遭えば反射的にキャーっと悲鳴を上げるくらいのステレオタイプでしか痴漢や傷害をとらえていないのかもしれないが、実際は痴漢でもセクハラでも怖くて助けを求めることはおろか息を詰まらせ声も出ないという女性も多い。そうした性犯罪や傷害の被害に遭った女性の恐怖や心の傷への想像力が、この秋元氏の歌詞にはまったくないのだ。
また、尾崎豊の「15の夜」を引き合いに出し「犯罪だからって過剰反応」だなどと反論しているファンもいるが、犯罪を描いているから批判されているわけではない。犯罪を描く歌詞や作品はあっていいし、それがすばらしい作品になることもある。しかし、上述したように、この秋元氏の歌詞は、スカートを切られるという行為を、男性目線のステレオタイプでしかとらえておらず、お得意のセンセーショナリズムで単なるネタとして描いているにすぎない。そのことが問題なのだ。
「サイレントマジョリティー」の前日譚だからセットで考えるべき、というファンの反論についても、同じだ。ファンは「月曜日の朝、スカートを切られた」で悲鳴も上げられなかった少女がそれをきっかけに自我に目覚め、「サイレントマジョリティー」で同調圧力にも抵抗できるようになるというストーリーだと擁護している。しかし、それではまるで痴漢や傷害の被害に遭ったのは、少女側の弱さか何かに原因があるみたいではないか。痴漢や傷害の被害に遭うことは、同調圧力に屈することや自分の意志を主張できないこととはまったく別次元だ。痴漢や傷害は、自我に目覚めるための通過儀礼などではない。受けた心の傷を成長の糧に変える、というレベルの話ではない。
おそらくは、こうして物議をかもすことも秋元は織り込み済みだろうが、そのことで被害経験者が傷ついたとしても描きたい何かがあるわけではなく、秋元にとっては被害経験者の心の痛みなど取るに足らないことなのだろう。
要するに、秋元氏が「スカートを切られる」という犯罪行為を、男性目線のステレオタイプでしかとらえておらず、お得意の安易なセンセーショナリズムのネタとしか考えていないことが、透けて見えているのだ。
それは秋元氏がこれまでも女性蔑視的な歌詞を大量に書いており、根本的に女性差別的な思想の持ち主であるということに原因がある。