『ゴジラ』シリーズ11作目となる『ゴジラ対ヘドラ』は、シリーズのなかでも屈指の異色作として知られ、現在でもしばしば再評価されるカルト作品となっている。
ロック音楽(特にサイケデリックロック)を前面に押し出したり、ヌーヴェルバーグやアメリカンニューシネマにも通じる実験的な要素をふんだんに盛り込んだ映像演出は、他の『ゴジラ』シリーズとは一線を画したカウンターカルチャーやサブカルチャーの匂いを感じさせる。
そして、もうひとつ、『ゴジラ対ヘドラ』をシリーズのなかでもエポックメイキングな作品にしているのが、当時の公害問題に対するアンチテーゼを込めた社会風刺的な内容である。
ヘドラという怪獣は、生活排水や工業排水で汚染された静岡県田子の浦の港で生まれる。ヘドラは水銀、コバルト、カドミウム、鉛、硫酸、煙突の煙、ガソリンといった有害物質を取り込むことでみるみるうちに巨大化。そして、身体からは毒性の強い強酸性のヘドロや硫酸ミストを排泄するため、駿河湾から地上に上陸すると甚大な被害を引き起こす、“公害怪獣”として描かれた。
言うまでもなく、これは公害が社会問題となっていた当時の世相を直接反映させたものであり、そういった風刺は、1954年公開の第一作『ゴジラ』以降シリーズを重ねていくごとに少なくなっていってしまった要素である。『ゴジラ対ヘドラ』という作品は、社会問題に対する風刺を『ゴジラ』シリーズに再び持ち込んだ、ある意味では原点回帰とも言える作品である。
少年時代に観たこの映画を「映画関係の仕事をしているきっかけにもなっている一本」とまで高く評価している映画評論家の町山智浩氏は『町山智浩の映画塾!』(WOWOW)のなかで、このように解説している。
「(『ゴジラ対ヘドラ』という映画のテーマは)ゴジラの原点に戻ろうということだったんですね。1954年の『ゴジラ』というのはいったい何かというと、“水爆によって生み出された放射能怪獣”であると。“人間がつくりだした原爆とか放射能に対してものすごい怒りを込めて人間界に復讐しに来る”っていう基本的なゴジラのコンセプトに戻ろうじゃないかと。
じゃあ、“いま現在危険なものは何か? 放射能のように自然を破壊しているものは何か?”って考えたら、これは、“公害”だろうと。“排水、工業汚水とかそういったもの”だろうと。だったら、その怪獣をつくろうということで、ヘドラというものを考えて、それに対して、放射能という人間の罪によって生まれた可哀想な存在である、大自然の怒りそのものの象徴であるゴジラをぶつけると。
具体的に言えば、ゴジラが、“俺のような被害者を生んでおいて、まだ地球を汚すのか!”ということでヘドラに対して戦っていくと。大自然を代表して。という、原点回帰の企画として考えられたのが『ゴジラ対ヘドラ』なわけです」