ツチヤは一日のすべてをネタづくりに捧げる生活を、劇場作家見習いとなった後も続けていく。資料室にある先輩芸人たちのライブ台本を借りては勉強を重ねる一方、同期の作家見習いと雑談などせず、空き時間にはひたすらネタを書き続けた。努力するのはいいことだが、“普通”の感覚で見れば「常軌を逸した」と表現しても言い過ぎではないであろうネタづくりへの情熱は、実は必ずしも評価されるものではなかった。劇場作家にとって必要なスキルはネタづくりの技術というよりもむしろ、先輩や偉い人の懐へ自然に入り込めるコミュニケーション能力であった。
〈僕から見えたその世界は、端的に言えば、「おもしろいが一番じゃない世界」だった。
先輩に取り入り、社員さんに媚を売り、舞台監督の懐に入る。それが出世への近道だと知った時、僕の中で、構成作家という職業においての敗北が決定した。
僕にとってそれは、つまらない世界だった。おまえらなんかのつまらなさに、感化されてたまるかと思った〉
結果的に、ツチヤと他の作家見習いたちとの間で軋轢が起こり、それは舞台監督や他の社員との関係にまで波及。最後はクビを言い渡されることになってしまった。
ネタづくりには努力を惜しまず才能もあったはずなのに、想定外の理由での挫折。しかし、笑いに取り憑かれたツチヤはそこから思わぬ道を歩み出す。ラジオや雑誌の大喜利コーナーにネタを送りまくるハガキ職人として生まれ変わったのだ。ネタをつくり、それを世間に発信したい。その欲求を満たすのに最適だったのがハガキ職人という選択肢だった。
それにあたり彼は『ケータイ大喜利』時代のペンネームは捨て去り、本名であるツチヤタカユキ(土屋祟之)の名で、『伊集院光 深夜の馬鹿力』(TBSラジオ)、『オードリーのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)、「週刊ファミ通」(エンターブレイン)内の大喜利投稿コーナー「ファミ通町内会」、「週刊SPA!」(扶桑社)内の大喜利投稿コーナー「バカはサイレンで泣く」といった、ネタのレベルが高く、採用されるだけでも難しい投稿コーナーで瞬く間に名前を轟かせていく。
そんななか出会ったオードリー若林正恭との関係が、もう一度彼をプロのお笑いの世界へと引き戻していく。投稿されるネタからツチヤの才能を見出した若林は彼を東京に呼び寄せ、構成作家として一緒にライブの台本をつくる。しかし、結局、二度目のリベンジも失敗に終わってしまう。ライブを前にしてツチヤは急きょ大阪に帰ってしまうのだ。理由は吉本の劇場作家を挫折したときと同じ「人間関係不得意」だった。