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日米首脳会談でも岸信介のモノマネ…じいさんコンプレックスの塊・安倍首相が抹殺した父親ともうひとりの祖父の物語

 それでも寛は抵抗した。戦争遂行のためと称して既成政党が解散して大政翼賛会に一本化し、1942年に実施された総選挙は非推薦候補として戦っている。この選挙は、戦争遂行という国策に協力的な候補を翼賛政治体制協議会が推薦し、軍部などが手厚い支援を行う一方、非推薦の候補は特高警察や憲兵から熾烈な監視や弾圧を受けたのだが、寛は病身を押して非推薦で立候補し、なんと当選をもぎ取るのだ。

 後に寛の息子・晋太郎が毎日新聞に寄せた回想記には、金権腐敗を糾弾し、戦争にも反対を続けた寛は、軍部ににらまれ、あらゆる妨害を受けたこと、また当時17歳だった晋太郎自身も執拗な警察の尋問をうけたことを明らかにしている。しかし、こうした逆風のなかでも寛は東条内閣に真っ向から歯向かい、軍部におもねらなかった。そして周囲に反戦、反骨の強烈な印象を残している。本書には、地元の古老たちのこんな証言が数々紹介されている。

「寛さんが翼賛会に入らなかったのは、戦争に反対だったからじゃよ。特に軍閥のやり方が気にいらなかったんじゃ」
「人柄っちゅうか、威厳っちゅうか、そりゃ今の政治家では絶対に追いつかれん。それくらい傑物じゃった。サムライじゃった」
「一貫して反戦。そして平和主義。いまの安保法制なんていう話、寛先生ならば決してなさらなかっただろうなぁと思いますよ……」(同書に掲載されたコメントより抜粋)

 ところが寛は終戦の翌年、持病の悪化などによって51歳の若さで亡くなってしまう。そんな父親を息子の晋太郎は敬愛し、「オレは岸信介の女婿じゃない。安倍寛の息子なんだ」と口癖のように言っていたという。だが、孫の晋三はまったく違った。

 本書で描かれる晋三の生い立ちとその実像は、心底からため息が出てしまうほどの凡庸さだ。小学校から大学までの計16年を一貫して“おぼっちゃま校”の成蹊学園で過ごした安倍首相だが、さまざまな逸話やエピソードに彩られた寛や晋太郎とは対照的に、同級生や恩師らをいくら取材しても特筆すべき逸話やエピソードが晋三にはまったくない、と青木は書く。

〈特に感性が研ぎ澄まされ、よかれ悪しかれ既存秩序への懐疑や反発なども強まる少年期から青年期にかけての逸話が、晋三にはほとんどない〉〈エピソードらしいエピソードが、皆無に近いのである〉

 周囲の人々から語られるのは“凡庸で、お行儀がよく、優しいいい子”というありきたりな人物評のみ。しかも興味深いのは、現在の政治姿勢をうかがわせる気配も、それを支える知識を吸収した様子も、まったく感じられないというのだ。

〈少年期から青年期にかけての晋三に政治志向の気配はほとんど感じられない。岸の孫であり、晋太郎の息子だということは周囲も十分認識していたが、私たち訪ね歩いた同級生の中にも、晋三から政治への意気込みはおろか、政治志向的な話を聞いた者は皆無に近い。ここでも語られるのは、ごく普通で何の変哲もない良家の子──つまりは、ごく凡庸なおぼっちゃまの姿である〉(本書より)

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