もちろん、それはアメリカだけの話ではない。政権与党はやりたい放題の限りを尽くし、日増しに軍靴の音が大きくなりつつある日本もまったく同じ状況なのは言うまでもない。坂本は前掲の対談でこのようにも語っている。
「僕は、緊張が高まっている今だからこそ小説や物語、映画や音楽やアートに力があるような気がします。
リアルな世界で緊張と緊張がぶつかり合っているときって、みんな音楽のことなんか忘れていると思うんです。
でも、そこに「ポロリン」という音が入ってきた瞬間に「ああ、忘れていた」と誰もが感じる。
(中略)
忘れていたことを思いださせるのは音楽やアート、映画や小説の役割ではないでしょうか」
また、文化や芸術にはこんな力もあると坂本は指摘する。
「声高に主張しても、違う考えを持っている人の心を開くことはできませんから。跳ね返ってくるだけで。固く閉じている心を開くのは、アートや音楽、映画や物語の強さだと思います。だから、こういうときこそ、より必要だと思います」
しかし、昨年夏に巻き起こった「フジロックに政治を持ち込むな」「音楽に政治を持ち込むな」の炎上騒動が象徴するように、この国ではアートがもつ力を否定するような動きがある。ただでさえ、政権への忖度などから報道は自由を失いつつある状況なのに、炭鉱のカナリアとなるべき芸術家たちですら口をつむがざるを得なくなるような状況が、この国では確実につくられつつあるのだ。
一方、先ほどのレディー・ガガがそうであったように、アメリカでは文化や芸術に関わる者が社会的なメッセージを発信しても、それが問題となることはないし、ましてや「芸能人ごときが偉そうに政治を語るな」などという馬鹿げた批判を受けることはあり得ない。先月行われた、第74回ゴールデン・グローブ賞でメリル・ストリープがトランプ批判のスピーチを行い大きな賞讃の声を受けたのは記憶に新しいが、現在の日本ではこういうことは起こりにくい。